第
3章 歓喜のある生活
思い起こすと多くの人々の協力を得た。1991年末に着工したが、それ以来Kaiwaka(以下KW)は、
温かくわれわれを迎え入れてくれた。マーケット
や郵便局、通りすがりの人たち、街中では見ることのできない温かさだ。パートナーがヨーロッパ人であったことも、また、その人が人格気高く、文化的な人で
あったことも大きな理由だと思うが、アジア人である私が、ここKWでこのプロジェクトを初めて以来、いわゆる人種偏見なるものを感じたことはない。私に
とっては、まったくの外国であり、うまく融合していけるかと、不安に感じていたのは事実であるが、それどころか、いろいろな形で多くの助けを得てきた。幸
いなことだ。平和で静かな村に、例えば、大きな力(金力)をもって土足で上がってこられては、排他的になるのは当然だろう。誰もこれまで培ってきた平和な
場を、侵されるのはお断りだ。これからも、どの様な人々とのふれあいが、さらに待っているか分からないが、日本ではおそらく経験できなかったであろう、道
のりになろう。
少しNZのこと、職人達のこと、近所の人達のこと、これまでに書いた小文等を織り交ぜ、さらに日記も振り返って、この章を書いてみたい。そして何といって
も、村の年間行事にもなってきた私の野外劇場での音楽会のこともお伝えしたい。
ニュー
ジーランド(以下NZ)の緑は、大自然のそれと牧畜業によるそれとがある。国土は日本の80%で、人口は400万人というから、その過疎ぶりは推測
できよう。しかし、つい最近まで羊が7,000万頭−現在5,800万頭−いたというから、それらによる地球温
暖化への寄与は大
きく、その点では人間の人口のみで議論はできない。
南島で
は、大きなカンタベリー平野は農耕に供されているものの、きびしい大自然が大切に残されている。また、Milford
Sound(氷河に削られた水深500m以上の入江で、切り立った山々に囲まれている)、その近くのトレッキングコース(予約が必要)、
Manapouri湖とその水面から178m下の海水面までの落差を利用した地中発電所(約50万kw常時発電し、アルミの精錬工場とその近くの町の電力
を賄う)など、Te Anauから足を延ばせる。
太平洋に
面した東海岸を北上すると、砂の崖からこぼれる様に出てきた直径1m以上もあるほとんど球状の岩石が、海岸線に散在している奇妙な場所
Maeraki Boulderもある。Christchurch(以下Chch)は南の島最大の都市で、Garden
Cityとも呼ばれるように、きれいな町である。ここからNZの最高峰Mt.Cookへも飛べ、冬は近くのMt.Huttでもスキーが出来る。しかし、
シーズンになると3/4が日本人で、その神風スキーヤーぶりは、Chchの病院での骨折患者を激増させ、これに関しては日本人の若者の評判は極めて悪い。
南北に連
なるMt.Cookを中心とした山脈の西側は、数カ所に氷河があり、素晴らしいところのようだ。北の端のNelsonから行ける国立公園も美しい
と聞く。
ここNZ
は、鉄道が少なく、交通手段は車かバスでなければならない。そのバスも国道1号線の様な幹線道でも、1日2、3便というような所もあり、十分情報
を集めて準備をする必要がある。宿泊設備で便利なのが、各所にあるMotelで、食器類、料理用具など台所が完備していて、近くの店で材料を買って来れ
ば、自分で好みの料理が作れる。Backpackersといって1部屋に数人で泊まることができる安い宿泊設備も各地に散在している。
北島を南
から見て行くと、富士山とそっくりなMt.Taranaki、少し離れてMt.Ruapeihuの国立公園、その北には魚釣りの出来るTaupo
湖、マオリの人たちが多く住むRotorua等がある。彼らはポリネシア系でこのNZの先住民である。人口は約13%と少なくなっているが、彼らの所有す
る土地は約5%と少なく、現在土地返還を含め、大きな社会問題となっている。アメリカのシアトル酋長もいうように、土地は個人に属すのではなく、花や草や
木々、虫や鳥や獣達と共有しているのだ、という主張と同様の考えをもってきたのである。ここでの温泉地を利用した彼等の住まいぶり、伝統的な木彫り製作の
様子の見学などもおすすめする。
牧畜が盛
んとはいえ、大きな自然の中に育ってきた、純朴で礼儀正しい人たちが多い。
この国において先住民のマオリの人達を抜きに、語ることは出来ない。
1800
年の前半にイギリス人達の入植が始まるが、それまではMaoriの学校があった。書き表す文字がなかったから、語り部(この先生をTohanga
という)がいて、知識を伝承していたが、イギリス人の入植とともに、その学校を突然閉鎖する。その背景を一生懸命調べていた男が、Elder(長老)や
Tohangaの了解を得て、彼等がその時持っていた知識を、今こそ解放すべき時だと判断し、「Song of Whaitaha」を限定出版する。
時代は
2000年前にも溯る。イースター島が彼等の原点で、そこでアジア人と西欧人が交流した所だといわれる。ムール貝(Mussel)をいかだに組んで
育て、成長する頃を見計らい、全て前もって準備を進めておき、それを航海中の魚釣りのえさや食料にした。魚は真水を取る手段でもあった(海水中に住むほと
んどの魚の身は塩辛くない)。そして、船出する時の潮流を読み、星空を読み、合計172人も乗れる船で、食料を積み、男女の人々を乗せた。女性の乳房の下
にはKumera(彼等の主食であったサツマイモ)を抱かせ船出をする。何と、NZに着くのに13日しかかからなかったという。この島を白い雲のたなびく
島Aotearoaと呼んだ。
部族間の
抗争も激しかった様だ。言葉も若干は異なるようで、AKLから望める火山Rangitotoは“Red
blood”と訳す部族もあれば、“Red sky
father”と言う部族もあると聞いた。
Hamilton
は、碁盤の目に区分された無味乾燥な街である。25年の再開発計画を練っていた時のことだ。7部族を統括する女性の長老が仕切る
Marae(集会所)に、AKL大の建築学科のその再開発計画に協力する連中が、招待された。それについて来ないかといわれ、訪れた時のことだ。
肥沃な
Waikato川に栄える地域で、現在は相当工業化が進む。その汚染が進む一方の様子を丘の上から見た長老の嘆き。パキハ(入植してきたヨーロッパ
人をマオリはこう呼ぶ)と話し合って、我々のこの嘆きを理解してもらえるのだろうか。再開発計画に上手くその議論が取り込めるのか、むしろ否定的だといっ
ていた。深く眠る瞬間−眠たいと感じる時−が、人間の魂が最も解放される時であり、貴重な時間だとして、深夜か
ら早朝まで議論が
続いた。それぞれの民族の持つ文化は豊かで崇高だ。
マオリの
言葉は、日本人にとって興味がある。5個の母音。母音を伴う音節をはっきり発音。rがあるがlがない。ケリケリ、ピオピオなどのくり返し言葉があ
る。カマッテカマッテ(War
cry)は、ガンバッテガンバッテに聞えるし、テナコトテナコトも何か日本語にありそうだ。この地KaiwakaのKaiは食糧のことで(因みに、
wakaは小船のこと)、昔の日本の村から発掘される貝塚のことを思い起こさせる。
マオリの
長老の自然観に強い印象を受ける以前に、アメリカインデアンのSeattle酋長が時の大統領に当てた手紙を、友人の一人を介して入手していた。
1854年の話だが、彼の部族の土地を売ってくれというワシントン政府の要求に答えたものだが、彼には、土地を人間が所有する、とはどういう事なのか理解
できなかった。地球を、自然を愛する人達の気持ちは通じていると思う。その手紙は、辞職する前の数年間、毎年最初の講義で学生にも読ませた。
安いもの
を好むのも事実で、住宅のデザイン、オフィスビル、マーケットなど機能優先の感があり、それらのデザインは決して傑出して素晴らしいものではな
い。しかし、湯たんぽで冬をしのぐこともできるし、ぼろを着ていても気にしない。だから食物も安く、過ごしやすい日常性が築かれているのだろう。しかし、
文化に乏しいのも事実である。
NZに
は、あのヨーロッパの彩りはない。現在の日本やアメリカに見られると同様、文化を核としての町の発展がない。正に、Sprawl化であり、その広が
りかたには何の感激もない。しかし、自然がある。下手な文化より説得力がある。
400万
人/55億人(0.07%)が、世界の酪農生産の1.5%も占めているのは偉大だ。しかし、それによって生じる温暖化、オゾンホール形成に大きく
寄与していることにもなる。地球温暖化への寄与が明確になってきた時点で、どう方向転換して行くか。それが問われることになろう。オゾンホールだけが問題
ではない。それを助長してきた人間の心の問題も問われよう。
かつて、
関西大学工学部建築学科に在職中に、学内誌に書いた2つの小文の一部を、住宅建設の前半の様子を振り返って紹介するために載せる。
振り返る
と、丁度1990年の元旦の計として具体的な企画を始めた。その年の2月、この話を研究室に立ち寄ったNZの友人の一人George Dodd
AKL大学助教授にしたところ、NZでは土地は全く問題ないので、是非NZでやってはという。オークランド大学の建築学部には数人の友人もいるし、学生を
連れてゆくのも国際化へ何等かの寄与が出来るだろう。また、当学科では、創立当初からあった建築環境工学のポストが、建築構造学に取られ一講座すら形成で
きなくなり、結局、建築構造学が中心の学科となった(この点については後で再度触れる)。建築学ましてや建築環境工学の発展には、限界を感じていたことも
あって、彼の地に建てることを決断した。
企業、コ
ンサルタント事務所等を中心に、寄付をお願いしたが、幸いバブル崩壊前で、goサインをだせる確信を得るに十分な寄付金(特に、kenon音響コ
ンサルタント、積水ハウスからの寄付金は、決意をするのに大きな助力となった)が集まった。NZでも多くの友人の支えもあって着工の準備も整い、1991
年12月には、KW村の現地において清酒で地鎮祭を行うことが出来た。先述の小高い丘の上を少し削り、10m x
8m、深さ4mの地下室を掘り、鉄筋補強のコンクリートブロック造の大きな箱が出来た。合わせて6本のクールチューブも、後の観測用にサーモカップルを
埋め込みながら、無事埋めることが出来た。パワーシャベルでDesが注意深く土砂崩れの危険を見守りながら、配管工のBruce
Tomlinsonが埋めてくれた。雨で地下室が持ち上がらないように、DenisとDesがブロック壁の外から防水をし、その外側にメタル(砕石)層を
つめ、その底に積極的に排水するように、穴明きの排水パイプを回して埋め戻した。雨降りの日は、ここからの水が下の川に流れてゆく。
2x4の
工法(こちらでは4x2と言い換えている)はこちらでも盛んで、私と同年輩のBuilder,Steve
Lomaxも熟知していた。構造計算屋のトラス構造は、重厚すぎるので軽くすべきだと言ってくれ、再計算まで段取りして、建設費をうんと節約してくれたの
はありがたかった。現場によく精通した職人の直感だった。工場で特別に組まれたトラスも現場で積み上げられ、棟上げ式をしたのは92年4月1日であった。
どの国でも骨組みの最も危険な工事が終わると、事故のなかったことを祝う習慣があるようだ。木の小枝や小さな国旗を掲げたりするという。日本の玉串をまね
て作り、レムの小枝と一緒に棟に飾って共々無事を感謝した。この間、出力400wattの風車が2台、300wattのが1台設置された。
かつて、
”土の建築”という国際会議があり、そこで日本の土壁について講演した時に、知合いになった歴史的建造
物保護委員会の
David
Studholmeが、南の島からきてくれ、土壁の議論を重ね、今後の協力も約束してくれた。2x4では、筋かいの代わりに合板を張り付ける。我々が不在
中にも、現地のビルダー達が作業を続けてくれたので6月には全部合板で囲われた。
92年の
夏休み(向こうでは冬)には木舞の施工を目指したが、意外に労力がかかることが分かり、西洋の方式として、木ずり下地を併用することにした。
Davidの友人のRon
Huttも来てくれ、一緒に木舞を作った。この期間に友人の一人が、羊毛による断熱かつ吸音材(グラスウールの様に、層状に成型しロール状に巻いてあ
り、使い方も同様である)が、つい最近売りにだされたと紹介してくれた。グラスウールは多くの問題点を持っていると思われるが、これだと値段も1.5倍
程度で、それに代わりうる地球と共生しうる面白い材料となろう。木製サッシュも入り、少し家らしくなった。この間、オークランド大学であった
”第10回Passive and Low Energy
Architecture(PLEA)”で、このプロジェクトについて話をしたが、それに先立ちオークランド大学の友人Tony
Wadkinsが、その会長のアリゾナ州立大のCook教授、早稲田大の木村建一教授、建研の小玉祐一郎氏を連れてきてくれ、種々有益な議論が出来た。
この9月
1日には、やっと住宅内でシャワーを浴びられるようになったが、それまでは基本的にはキャラバン生活で、水運び、時には蝋燭、なんと言っても、ト
イレは4mの深さの穴に小屋をかぶせた、自然と共生する方式だった。ちなみに、これをlong
dropというが、夜、扉を開け放って南十字星を見ながら使ったのも、今から思うと楽しい思い出である。キャラバン生活で一日一人700円くらいの食費と
はい
え、3、4日に1回はビフテキを食べられたから、非常に豊かな食生活であった。同行した院生、学生も延べ17人となり、中には近所の小学校に招かれ、子供
たちに話をしてきたりして、種々の経験を積んでくれたことであろう。
10、
11月は、現地で友人達が大変な苦労をして、bulrush(畳表に使うイグサ)を集めてくれていたので、12月からはそれを用いて、茅葺きにかか
れた。ドイツからの移民手続きを終えたばかりのNorbert
Kleinschmidtが、家族共々やってきて、日の出から日没まで頑張ってくれた。しかし、ドイツでは普通葦で葺き、それ用のチャートで必要量を見
積ったので、それより細いbulrushを使用するにあたり、その量の見積を誤った。結局、屋根の半分しか葺けず、次年度まわしとなった。工業製品を扱う
のと大変違うところだ。今後の大きな課題の一つとなろう。
こちらに
来てから、数社の新聞社が個々にやってきて取材を求められたが、茅葺のこの
時期まで待ってもらっていた。茅葺が一段落したところで彼らを呼んだ。その内の一つが図の記事(文中、Prof.Sakuraiとあるのは、私が地位をか
たったためではない。Associate
Professorもこの様に呼んでいる)であり、少なからず興味を持ってくれているようだ。ラジオやテレビでも放映され、現場への訪問者も、へんぴな所
ながら100人を越えた。対応も大変だが、各々がそれなりの意見を持っていて、議論するのが楽しい。
図3
-2-1 ある地方紙での報道
年も明け、留守の間にも、木ずり下地を作ってくれていたので、この3、4月には土壁の
施工が出来た。先のDavidとRonに加
えて、イタリア人の
Gino
Biancaも参加してくれ、近所のマオリ人等の手伝いもあり、着々と工事は進行した。Ginoはヨーロッパの左官技術を身につけており、土壁について国
を越えたよい研究グループが出来そうだ。
このキャ
ラバン生活を通じて、いろいろなことを学んだが、出て来るゴミにはいろいろ悩まされると共に考えさせられた。折角、貯めた木切れも防腐剤や防虫剤
を塗っているので、食物の料理用燃料には用いられないことを知った。土に埋めても、燃やしても、その地に草も木も生えなくなるという。隣人の強い薦めで仕
方なく近くの村のゴミ捨場に捨てたが、ここから後がどうなるのか心配である。本当にこの様な処理がいるのだろうか。
プラス
チックのゴミが多いのも、普通の家庭ゴミと同様である。この3月、日本を立つ直前のテレビで、プラスチックから石油を再生する技術が開発されたとい
う報道があった。普及するとよいと思う。即ち、高エネルギーを使用した製品や素材は、そのエネルギーがうまく再利用、再使用されねばならない。衝撃音の消
音の問題で関与した高校野球の金属バットも、割れるとそれを集めて、再利用される組織化が出来ている。
93
年9月現在の実験住宅は、風車発電で電灯、冷蔵庫、風の強い日は、掃除機、洗濯機等の電力がまかなえる。メタ
ンガスも料理に使えるようになった。30日間の糞尿から12日分の燃料費が得られるという。内装も一段落し、ソーファ、テーブル(8人がけ)も購入して、
居住可能な住宅となった。今冬は、特に寒く外気温が0度まで下がったが、室内では9度以上を示し、厚着はしたもののヒータ等は一切使わなかった。
バブル崩
壊後は、寄付金集めに苦労したが、このプロジェクトに対する深いご理解のもと、さらに協力を得、若干の私財も投入したことで、所期の75%は建築
でき、何とか乗り切ることがでると思っている。なお、1991年12月から現在までに調達し、使った費用は、建設費、交通費、滞在費、等全てを含め約
3,000万円を少し越えた。
思えば、
地上10mもの所での工事など、危険な作業を沢山してきたが、同伴した学生や作業員に怪我もなく、無事にここまで来られたことを、神に感謝してい
るところである。
地球と共生する
地球環境
に関する研究や議論に、いろいろな言葉が登場する。かつて、このプロジェクトも”地球に優しい”実験住宅と書い
て、ご批判を受けたことがある。その表現は、人間の傲慢さを表しているという。
確かにその通り
で、シアトル酋長も言うように、我々が地球に住まわせてもらっているのだ。英語でもいろいろな表現がある。Nature friendly, Zero
energy, Ecological, Self-sustainable, Perma-culture, Low-tech,
Environmental等
など、日本語よりも直接的で素直な表現をしているようだ。現在では、”自然と共生する”実験住宅と表現し、プロ
ジェクトとしては
持続可能性(Sustainable)を求める研究としている。
設計者を
支援するフローチャートには、地球との共生性の評価尺度を、独立要因として取り上げた。建築材料だけでなく、あらゆる物質が、どの様にエネルギー
を使ってきたか、定量的(MJ/kg)に評価することは大切だ。すでに建築材料について種々集められているが、一例を示すと、
|
消
費エネルギー(MJ/kg) |
鉄 |
30 - 60 |
ア
ルミニュウム |
100 - 270 |
ガ
ラス |
12 - 24 |
ポ
リスチレン |
100 - 140 |
木 |
0.5 - 6 |
紙 |
45 |
土 |
0 - 0.5 |
コンクリート |
8 |
食物についてもこの議論が必要だ。動物性タンパク質と植物からのそれは、前者の40-100(MJ/kg)に対し、4-6(MJ/kg)と10倍以上も異
なる。食文化についてもエネルギー消費について、料理法などを含めて国際的に協力して考えなければならないだろう。
さらに、
次のようなパラメータも尺度構成上必要となろう。
・ 建物を建てる過程でのエネルギー消費量と、どの様な形でそれを使うか。
・ 各
部材の耐用年数。
・ 住
宅の補修に必要なエネルギー
・ デ
ザインの永続性。例えば、粗大ゴミとして放棄される家具調度も長期間使い続けられ
る
デザインなら、捨て方が異なる。建物においても優れたデザインが要求される。過去
多
くの国を旅したが、残念ながら日本ほど劣悪なデザインの住宅を見たことがない(空
間
を創るというより、新建材の寄せ集めだ)。ここでの建築家の使命は大きい。
・ そ
の材料の毒性。
・
いったんエネルギーを使用したのだから、それを再利用するためにはどのようにすればよいか。
等など拾い上げてみると、地球との共生性の評価尺度を作るには、色々の要素を考える必要がある。そして、今後の
大切な評価尺度の一つとして、各住宅を
チェックしてゆかなければならない。
1案とし
ては、この住宅での持続可能を目指す各項目の現状と比べて、それからの±のポイントを与えて、その合計で評価量とすること
も考えられる。
※ 益々大きくなってゆく大学の責任
さて、物
質文明を導入し、展開させてきた西洋人が、地球環境に関して真剣に考え始め、それを守るべく行動している人は、すでに相当数にのぼっており、一個
人の心に占める比重も非常に大きなものになっている。自然環境が豊かなNZでも、多くの関心が寄せられている。先述のごとく、このプロジェクトに関しての
新聞、ラジオ、テレビでの報道ぶりもその証拠の一つであろう。現場に遊びに来る小さな子供達も、温室効果やオゾンホールのことはよく知っている。学校で教
えているからだ。一方、日本ではどうなのだろうか。受験勉強にいそしんでいるだけなのだろうか。地球環境を守ってゆく上で、子供達への教育は不可欠であ
り、基本的だ。この様な様子を見ていると、第2次大戦前、工業力を背景に、やみくもに軍事力増強に走ったかつての井の中の蛙のような存在になりつつある、
と感じているのは私一人であろうか。最近までの工学は、主として物質文明、いやもっと悪く、金を得るための手段として使ってきた。今度は汚してきた地球に
仕える番だと思う。
工学はけ
だし、人間生活の豊かさを支えるための学問であり、ことに建築学は幅広く総合的にそれを考えて行くべき場である。しかし、余りにも専門分野に別れ
すぎ、孤立し、他との関連が全く熱心に議論されてない(いや議論できないのであろう)。その上、本学科では、自分の領域内での友人を連れてくることに専念
するから(当教室では6教授中4人が構造学だ。いずれ計画系が昇進しても半分に過ぎない)、建築学科本来の持つべき姿と全く異なった学科構成を行ってし
まった。最近、1冊の本(脚注)を興味深く読んだが、普通の社会では考えられない大学における非常識を指摘している。私は、これもその一例だと思ってい
る。一体、建築学としての哲学はどうなってしまったのだろうか。大学という閉鎖社会では、この様なことが許されてもよいと言うのだろうか。これでは社会を
批判し、リードしてゆくべき大学の使命など果たせるわけがない。大学の存在が、今や危機にひんしているのも、この辺りに原因があるのではなかろうか。読者
にも、大学の危機を警告する書として、ぜひ読まれることをおすすめする(筆者と著者名は同じだが、個人的に何等関係はないので念のため)。
桜井
(邦):“大学教授−そのあまりに日本的な−”(他人書館)、
1992年10月
現在の大学で議論されている建築学は、余りにも現場と離れて、自分勝手な観念で作り上げられた建築学の様に思え
る。今回、実際に自分達で家を建ててみて、
学ぶものがいっぱいあったし、今後も学ぶことは多いであろう。むしろ、この様な現場に、正しい本来の建築学の学び舎があるとさえ感じている。
NZにお
ける、現場の人達のこのプロジェクトに対する興味の示し方は、大学の研究室のそれとは異なり、大変積極的であり実際的である。異なる職種を持つ職
人も、自分の領域のみならずこの住宅建設をトータルでみようとする。いわゆる専門家と称する人種は、その小さい領域のみを語ろうとするが、現場にいる人た
ちの態度は大きく異なる。そして、そこでの科学は学歴を問わないのだ。実際の社会から遊離した大学の姿勢は、社会からは就職への一過程と見なされても仕方
のないことになろう。また、最近の学生の態度にもそれが映し出されているように思えるのはまことに残念なことだ。
この実験
住宅は、緑豊かな環境にあり、PUKEKO(羽の少し退化した黒い大きな鳥)、ロセラ(多くの原色を取り混ぜた亜熱帯から来たようなきれいな
鳥)、ルールー(ふくろう)、雉、山鳩(Woodpigeon)等など野鳥も多い。緑の大学(図3-2-1の見いだし参照)とは、この環境をできる限り壊
さず、さきに掲げた4点(自然エネルギー、周りからのもので住宅建設、非環境汚染、自給自足)を中心に、先人達の見いだしてきた種々の手法を見直し、自然
と共にある場を、造ろうとするのだが、それは単に工学的側面を導入するだけではなく、人間の本来持つべき側面、音楽や芸術までも共存させたい。縄ない、草
履造り、紙すき、野外劇場、造園、芸術・・・人間が自然とのふれ合いを持つ中で、これらを自由に表現できる場にしたい。
現場の丘
には、ギリシャの野外劇場の勾配(26.3度)によく似た部分があり、これを野外劇場として利用し、地元の演奏家をまねきたい。すなわち、この様
な強い勾配では、前の座席面からのさっか角での負の反射波が小さくなり、舞台からの直接音が明瞭に聞こえるはずだ。かつて、パリのピアノコンクールでア
シュケナーゼに一位を譲ったものの、素晴らしい女流ピアニスト(ベルギー人)である友人Nicholeが、ここでの演奏を約束してくれている。竣工式での
演奏が楽しみである。
また、あ
の南の島からの二人は、何故にこの様に一生懸命やってくれたのだろうか、人間愛以外の何ものでもない。それらが集う場所にもなって欲しい。
具体的な
workshopとしては、土壁については、NZのDavid Studholmeを中心に、茅葺については、ドイツ人のNorbert
Kleinschmidtを中心に、セプティックタンクについては、NZのBruce
Tomlinsonを中心に研究グループを造りつつある。風工学をやるオークランド大学建築学部主任教授Richard
Aynsley等の協力も得られよう。協力者の国籍も10カ国を越え、益々国際的になってきた。
この様に
書いてくると、全てが順調に進んできたような印象のみを与えるであろうが、決してそうでもなかった。どうやら日本人の外国での一般的な印象は、決
してよくないのである。何事につけても、日本人は金持ちだからふっかけてやれ、という態度になる。金持ちであるという事と共に、その背景にある精神的な
安っぽさも盛んに批判されており、それを払拭するのに個人ではどうしようもないことがある。困ったことだ。日本人にとって本当の国際化はまだまだ遠いよう
だ。
この実験
住宅の様子を伝えるテレビニュースでも、科学者が未来の住宅に対する青写真を描いてくれるかも知れない(Maybe、just may
be)といっていたが、ことがたやすくはないのは事実だ。雨水も、最もよく降る月で屋根全面から集めても過去の統計による必要量の75%、料理用燃料も糞
尿から言われている通りとしても、40%しか得られない。風車も製作するまでにどれだけのエネルギーを要したか知る必要がある。メタンを燃やした後の炭酸
ガスはうまく光合成で処理できるか等など、着々と議論は続けている。消極的な立場で言い換えれば、人間生活に必要なエネルギーは、年間どれくらいで地球を
どの様に食いつぶしていることになるのかを、明確にしようとしていることにもなる。何れにしても、持続型の住宅への楽しいチャレンジであり、出発である。
最後に、
強調しておきたい主張の一つは、消費文化に慣らされた人間にとって非常に難しいことだが、何にもまして、質素に謙虚に(物質的にのみでなく精神的
にも)生きることが大前提になるのは言を待たない。化石エネルギーに依存した社会構造は、近い将来、破壊と退廃を生むという結論は明白だ。我々は過去に帰
り、軌道修正をして新しく持続可能を目指した方向に、新しい科学を作り、発展させて行かねばならない。
KWには、私たちがこのプロジェクトを始めた1991年ごろから、多くの国際人が住むようになった。ドイツ、イ
ギリス、フランス、ハンガリー、オランダ、
インド、ルーマニア、ロシア、スコットランド、スイス、アメリカ等など。その様子を見て、地元小学校で子供達や各国の人に、“私の小
学校時代
”と題してスピーチをしてくれ、と依頼された時のメモである。自然豊かな子供時代を思い出し、学校での勉強とともに自然のなかで遊
び、よく自
然と話すようにとしゃべった。このことは日本の子供達にも伝える大きな義務があると思っている。
KW小学
校でのお話(2004年3月29日(月))
私の名前
はYoshiです。日本から来ました。GibbonsRdに住んでいます。実験住宅を作って、太陽エネルギーの利用を種々試したり、米や野菜、果
物を作って自分の食べ物は自分で作りたいと思っている。回りを汚さないようにすることも大切で、浄化池や浄化槽を作ってきれいにしている。1年に1度秋に
音楽祭をして楽しんでいる。一度みなさん一緒に、実験住宅を見に来て下さい。
地球儀で
両国の位置(1.2倍)や人口(30倍)のこと、漢字のこと(川と魚)、開国前まではいろいろな独自の文化があったが、現在は
Globalizationの大きな波の中にある、こともしゃべった。
私は
1938年生まれです。幼稚園に2年通ったが、泣き虫(crybaby)で、いつもおばあさんに一緒に来てもらっていた。7歳の時に小学校に入ったと
思う。1945年のことになるから、第2時大戦の終わる直前だったと思う。防空頭巾(Thick and deep
coif)を被って通学したこともあった。私の住んでいた神戸もとうとう爆撃を受けた。広島、長崎の原爆被爆のみでなく、日本のほとんどの都市が壊滅状態
だった。そして食糧難だった。食べるものがなかった。米が主食の民族だが、水っぽいスープに2、3粒の米がはいっている程度だった。家畜の飼料用のトウモ
ロコシを食べ、椰子の粉の配給も受けた。いつもお腹が空いていた。その頃、父親は戦争に取られ、おじいさん、おばあさん、お母さんと弟の5人の住まいだっ
た。しかし、おじいさん、おばあさんが小さな畑を作り、いろいろと教えてくれた。
小学校時
代に、突然教科書が変わったのが強く記憶に残る。古い日本から新しい時代への変化の象徴だった。戦争は決してすべきものではないとつくづく思っ
た。
少しず
つ、日本も戦争の疲弊から回復途上に入ってゆくが、貧富の差が出来始めた。学校でそれが生徒に影響しないようにと、制服を着て、学校で給食が与えら
れた。色々と学んだが、強く印象に残っているのは、むしろ、自然のなかで遊んだことだった。海水浴、魚つり、道路での缶けり、トンボ、セミ、キリギリスな
どをよく捕まえて遊んだ。貧しかったから、布で作ったグローブで野球も楽しんだ。お腹が空いて、貧しかったけれども何故かなつかしい(good old
time for me)。日本は現在物質文明の頂点にあるけれども、あの頃が最も楽しく幸せだったと思う(joyful and happy)。
6年後の
13歳の時、先生にすすめられて、受験をして中学に入った。3年後の高校、さらに3年後の大学と受験は付き物であった。学力の選択に使われる試験
は、人間本来の個性を測る物差しでは決してあり得ない。よいシステムとは決して思わないが、それが日本の現実だ。Achievement test
can not be a good measure to find one’s personality and
creativity. But it is the realty in Japan.
最後に、
私がみなさんにいいたいことは、もっと自然のことを知る時間を持つことだと思う。
当地のメディアからも取材を受けるようになった。初期の地方紙、FM放送、テレビニュースに始まって、コメ作り
について、National
Radio、Northern Advocateのインタビュー、Asia Downunder(TV1)やKaipara
Lifestylerでのプロジェクトの紹介など。Kaipara
Lifestylerの記事を第5章に示す。最近の様子を見ていただくのに良いかもしれない。
素晴らし
い歓喜を得た瞬間を考えてみよう。多くはシナリオがあったわけでもなく、場所的にも、(思考)空間的にも、時間的にも確定的に起るものでなく、む
しろ突発的なものである。勿論、そのシナリオを創って、その流れの中で見出そうとしても、多くの場合その通りに創出できない。回りの環境との共存の場で、
シナリオ外からの付与があって、素晴らしい結果、歓喜が生じる。これはすでに個人の創作的、人為的な作業ではない。ドイツ語の格言にこの様なのがある。
“歓喜は神からのインパルス(衝撃)である(ベートーベン第9の合唱の一部)”
そして、
“歓喜を得るには多くを必要としない。そして、歓喜を得られれば王様気分になれる。(輪唱曲)”言い得
て妙といえないだろうか。
日常生活
において、再現性のある線形的(linear)な変化にはさほど驚きもしないし、大きな感銘も受けない(CDで再生する音楽など)。しかし、非線
形的(non-linear)な変化には感銘を受け驚嘆する。毎日の日の出、日の入り、その偉大な表れ方(太陽と雲の戯れ)は、誰にも創造出来ない表現
だ。これに少しでも近づかねばならない。言葉で書くことの単調さに比べ、自然の中で直接感じる歓喜。何と豊かな空間であろうか。きれいな景色を描写した絵
といっても線形だ。もっと非線形な自然の現象を目指して表現する方法を考えるべきだろう。そうすれば想像空間、瞑想空間へと思いを広げられる。
Nichole
(最初の音楽会でピアノを弾いてくれたベルギー生まれのピアニスト)もBrahmsの楽譜に多くの符号をつけていた。5線符の上の符号のみ
では表せないものがあるのだろう。音楽表現が再現性を主張せず、非線形性を表している事を言おうとしているように思えた。そして、音楽演奏は舞台上の演奏
者だけの作業ではない。聴衆があってこその演奏だ。毎回の音楽会における演奏者と、聴衆のすばらしい調和と融合も再現性のない非線形の一つだ。
一つに
は、時間に対する変化が早すぎるとついて行けない。夕焼け、朝焼けの刻々の変化すら表現できない。1つの言葉(夕焼けとか朝焼け)に表して、それを
逃げているともいえよう。また、早すぎる変化には安らぎを感じにくいのも事実だ。人間には潜在的なリズムがあるのだろう(α波と
1/f)。季
節の変化の描写が絵画にも音楽にも見られるが、時間的にも空間的にもその変化ぶりは一断面に過ぎない。
なぜ、太
陽が天空にあると単純に思えるのか。日の出、日の入りは地球と一緒になって作られていることで、さらに場が素晴らしくなるのだろう。水平線がある
ことで、日の出、日の入りはますます楽しいのだろう。太陽と地球に感謝。
私なりの簡単な考察をしてみると、西欧では自然をシミュレートして自然を表現した上で、それを乗り越えて新しい
創造を生みだそうとする。文化の育った地理
的な背景もあり、羊を追いかけながらメランコリーではついて行けない。そして、メジャーが基調となったといえよう(音のみならず色彩を多く使う絵画につい
ても然り)。傲慢にも映るが、生きることを探そうとしている。しかし、自然を克服し挑戦すべき対象と考えている。それがGE(遺伝子組みかえ)へと導いた
と言えよう。
一方、東
洋ことに日本では、大きな自然があって、そこに人間的な小さな乱れの導入が、かもし出す雰囲気を楽しもうとする。マイナー基調である。(ある意味
で)大自然を認めた上での哲学的思考で、人間の存在を位置づけようとしている。手法としてはたやすい方法に映る。思考の発展が止まるとそれを大自然に託す
(そこに本質があるのかも知れない)。
東西文化
が異なる側面を持っているという認識をしながら、新しい創造にすべきだと思う。幸いにも、KW村には地元Kiwiの外に、先にもふれたように、多
くの国籍の人が集まっている。よい空間といえよう。
祭りでの楽しさは歓喜の一つだ。そこでは、たましいの世界との接点を求めようとしているかのようにも思える。社
会の表に出ないで隠れたままで終わった人
達、自分の築きあげた思想を表現できないで一生を終えた人達(神はそのことをよく知っていて、きっと次の世界では上位の新しい出発を与えてくれるに違いな
いから、そのことを決して嘆いてはならない)は多く居る筈だ。そのsoulを呼び集める必要がある。お盆はそんな人々をも思いながら、たましいとの対話を
求めようとする行事だと思う。
いつも神
やたましいとの関連がある祭りは、何気ない習慣的なものとしてみるのではなく、その背景に思いをはせながら、その歓喜に浸らねばならないと思う。
たましいの世界との接点を求めようとする習慣は、過去から多く存在している。
人生を、
存命中の与えられた短い期間のみだと思えないように設定し、すなわち、死後においても、個人の人生からの影響が言い伝えられ、面々と続くと考える
とき、初めて、次の世界へと足が踏み込めると思う。そんな思考の流れの中から、きっと次の世界からも関連が見出せよう。
文化も多
くは富の方向に流れてきた。自然の方向に流れるべきだ。風土主義(Vernacular)のもとで、持続可能な空間には、昔から多くの文化が生れ
てきた。それを丁寧に観察し、消してはならない。日本は、物質文明に毒され、この150年それらの多くを消してきた。コンクリートの中から文化を発するの
は難しい。一見文化のような創造も、所詮は、人工的な場からほんの少し脱皮したに過ぎない(例、図3-3-14など)。
霊長類と
して考えて行く中で、たましいの世界を求めていくというのは傲慢かもしれない。歓びを求めていく中に、それがあるのかもしれぬ。鳥や植物にもそれ
がありえよう。彼等の一見変化のない一生は、最も強く生き延びていける手法かもしれない。人間はむしろ、自分が作った変化の中でうごめき、そして、崩壊へ
と進んでいるように思える。
生と死の間に何を得ようとするのだろうか。確かなことの一つは明日への着々とした進歩であろう。そして死の世界
での精神的発展へとつなげていこうとする努
力の過程でもあろう。
では、明
日への進歩とはなんだろうか。具体的には個人個人の持つ条件、環境において為されねばならない。人はそれぞれ違うのだから。そして、人間らしい進
歩を考えるとき、大自然、そこに住む鳥、花、草、植物、動物、鉱物、雲、地球上の万物の中に自分を置き、そこを出発点として展開していくことになろう。
それに
は、絵画、彫刻を行う上での丁寧な観察と同化、思想の表現、目の前に広がる空間、それをこえた幻想の世界への詩歌としての表現の中での瞑想、そよぐ
風、小鳥の歌等々を感じて歌いあげる。生き方を具体的に模索する中での文学、美しさを具体的に模索する中での文学、自然現象のしくみを物理的に解き明かし
た時の歓び。日々にこのような要素がなくては生きていく意味がない。このように生きることの基本概念をぬきにして、人生も建築学もありえない。
偉大な結
果を残した原点には、何時も感動を与える創造性がある。そのエネルギーは徐々に形式化され、組織化され(多くの場合、それは理想的に構成されな
い)、崩壊してゆく。膠着状態がくると、何もかも、もう一度原点に戻るとよいと思う。コンサートホールを例にとると、Gewanthousは元々四角い舞
踏場だった。そこで音がよく響き、美しく聞えたから、音楽演奏のみを聞いてみようというのが、コンサートホールの出発であろう。その後、種々の試みがホー
ル設計において、ことに、その形について為されてきたが、何一つGrosser Music
Vereinssaalを超える成功例はなく、最近は、また、四角いShoebox(靴箱型)へ回帰しようとしている。
何かをやりだすと次がある。知識を集めるだけではダメだ。音響学でも、このプロジェクトにおいても、やりだすと
次から次へと楽しく発展的にことが進む。そ
こに歓喜が見出せる。小さくても新しい発見に出会える楽しみを数々経験してきた。例えば、音響学においても多くの論文を書いてきた、始末に終えない
Kikuyuについては、その茎(stalk,
stem−幹はtrunk)に炭素が多く含まれていそうで、燃料の一部にでき、その灰は肥料として使っている。稲は実際多年草で、古
い切り株
からのそのままの苗で、一定の収穫を得ている。この様にすれば、種まきも田植えも不要になる。ソラークッカーにはガラスの覆いを付けた。まさに温室効果の
利用である。これらのことは大量生産の過程では見いだし難いことだ。自然の中で、具体的に触れて、見て、感じて学ばねばならない。知識で動くのとは全く異
なる。自分で自ら経験しなければならぬ。
鳥、草、
花、空、雲等がそれぞれ異なるように、人間一人一人も個々でありたい。素晴らしい自然のハーモニーを作り出す時、たましいの世界を覗くことができ
るかもしれない。
子供の
頃、朝起きたときに感じた、何か大きな新しいポジティブな変化を期待した、あの感覚を多くが忘れてしまっているのではないか。感性を大切にしなけれ
ばならぬ。これは良い、面白く有益だと思えば、回りを見ずに始めること。そんな場を作らねばならぬ。年を取ると時間が早く過ぎるように思える。
歓喜は心を舞い上げるものばかりではない。物のあわれ(Pathos)を感じる時にも歓喜はある。日本のたたず
まいが持っていた‘わ
び
’と‘さび’はその事だ。Kikuyuにしても、その生きている時の様子から死へ、そして
地球に帰って行く。それを
取り上げて観賞する事は、非線型的空間になり得る。ドライフラワーもその一つかもしれない。太陽が育ててくれるもの、その長時間かかって作られたものを、
一気に使うという行為は、上前をはねるような行為だ。1年毎にそれを楽しむ。そしてその楽しさを深めて行く。
自分と音
響学を振り返ってみると、着々と個人がやってゆくことで、何かが人類の進歩に向って出来ていっていると思っていた(=社会的協力)。それは小さな
人間の個が発したささやかな理屈だ。しかし、悪いことには、それらが人間社会での欲望に歪まされていることだ。自然という大きなふところとの結びつきは一
つもない。その結びつきの中に個人の解放があると思われるのに。歓喜の質とレベルが異なる。野外劇場はその一例だ。
2枚の合板のつなぎ目を一定の幅を持つ他の木で覆うと、2枚の合板の木目は連続的で、つながった板だと錯覚を起
こす。曲線から何かが始まると云えるかも知
れない。直線はずれていると簡単に不連続を感じる。しかし、これも曲線でつなぐことは可能だ。両者の面白い補完性は、絵画の表現や生け花、彫刻、あらゆる
所に存在している。それを追い求めていくことは面白そうだ。覆う木の幅が大きくなると錯覚も大きくなる。それと同様に、不連続でも連続に思わせる、間違っ
た(空間的、時間的)場が社会には多くあるだろう。注意しなければならない。
視覚と聴
覚の融合による、興味ある現象に最近気がついた。大きなスクリーンの映像を見ていると、スピーカーが後ろにあっても、前のスクリーンから音が聞こ
えてくる。音響学の第1波面の法則からすればそれはありえない。2つの感覚の融合された結果であり、錯覚なのだろうが、このような場はいろいろなところに
存在し得るので、真実を知る時には注意が必要だ。正面から取り組みたいが、時間が問題だ。
Noiseも自然環境への汚染の一つであるのは明らかだ。ここの3重ドアーでのように家からの騒音を下げると、
鳥達も近くまで来る。3米先の
Honeylocutには、ロセラ、やKingfisherがやってくる。外を汚さなくなると、素晴らしい自然が向こう側から近づいてくる。
3−1)残り物
で再生する楽しさ
少し大き
な工事をすると、よく残り物ができる。木の切れ端は、Off-cutと呼ばれるが、それらを利用して何かを作るのは楽しみだ。過去15年の間に時
間の許す範囲で、いろいろなものを作った。道具のなかった時代に作ったものも、それなりによい思い出である。
図-3-3-1 足踏み台2個(ジグソーが入った時点で切り抜いた)
図3-3-2 本棚(2階の書斎)
図3-3-3 食器棚
図3-3-4 種置きの棚
図3-3-5 音響機器の棚
図3-3-6 展示台
図3-3-7 小机5個
図3-3-8 ソファテーブル
図3-3-9 机3個
図3-3-10 和机
図3-3-11 食料品貯蔵棚(地下室)
図3-3-12 Kikuyuの乾燥台
図3-3-13 ゴミ箱(手前プラスチックなど、奥紙類)
3−2)周
りのもので表現する楽しさ
単調な壁
面には、絵画や置物などの飾りが欲しくなる。直線の集まった隅っこにも何かがほしい。買うと高価だが、周りにあるものや、人からもらったもので、
何かを作ってそれに代えることもできる。また、それらは、その一部に変化を与えることで、そのたびに異なった印象になる。理屈をこねる気はさらさらない
が、空間に時間軸が与えられる。いわば変化が与えてくれる楽しみだ。そして、結局は本人が楽しめばよいのだ。
図3-3-14 飛躍(A jump)
図3-3-15 旅立ち(Start for a trip)
図3-3-16 野次馬(Nosy)
3−3)四
季折々の変化
自然は四
季折々の美しさで目を楽しませてくれる。まだ意識的に草花を植えたことはないが、畑の隅々、田んぼの中、果物や、木々の花、新しい木の芽等などに
よく目を凝らすと、美しい芸術を見出せる。まだ十分の時間をかけて収録していないが、ここにはその一部を紹介し、次回までの楽しみにおいておきたい。
JPG
図なし
図3-3-17 クモの巣のFormation
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雉
のコメ |
雉
のコメ |
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ひょ
うたんの花 |
ズッ
キーニの花 |
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ニ
ンニクの花 |
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図3
-3-18 コメ二態、ひょうたん、ズッキーニ、ニンニク、など
Tintinとコメの話
子羊の面倒が見切れないのでここで飼ってくれないか、という話を持ってこられ、不安な気持ちのまま引き受けた。名前もすでにフランスの人気漫画から
Tintinとつけてもらって、哺乳瓶と一緒にやってきた。最初、主たるはミルクで、柔らかい草を少しずつ食べさせはじめた。
野菜や田んぼがあるのでロープにくくるしかなかった。ねじのように曲げたステンレス製の頑丈な杭を、深く地面に回しながらさして、抜けないようにして、
ロープの一端を杭の先端にくくった。杭の先端はくるくると回るので、彼はロープの長さ分は自由だ。ミルクを入れた哺乳瓶を持ってゆくと私に突進してくる。
先ず、3回ほどミルクのはいった哺乳瓶に頭突きをくらわして、乳首に食らいつき、ごくごくと飲みだす。お母さんのおっぱいから飲むときもこうしたのかもし
れない。
そうこうしていると、段々と草のみを食べるようになった。その間、気の荒いオスにならないように、角も睾丸も切られ、さらにペット用の羊に変わっていっ
た。毎朝犬の散歩のようにして、あちこち草を求めて連れ歩き、ロープの杭をさして彼の1日の食事の場となる。途中、畑などに入りかけると
“No”と強く言ってロープを強く引く。何回もやると軽く注意するだけで、よく分かるようになった。
杭を打って場所を固定すると、前の場所にバケツを持って行きフン集めだ。体が大きくなってゆく様子は、フンの量にも表れる。主として尾関式浄化槽へ入れ
た。バイオガスへの変換は、人間のそれよりは強くあった気がした。消化機構が異なるのだろう。
厚くなった毛も、隣町から電池バリカン持参でShearingに来てくれた。あっという間にかってくれたが、その見てくれの違いは噴出すほどおかしかっ
た。厚い毛で覆われているのだなと思った。
和太鼓の演奏に来てくれた連中と記念撮影の素っ裸の
Tintin.
草を食べる動物という知識しか持ち合わせて居なかった私は、もとの駐車場でKikuyuが深く茂っているところに、よい草場と思いつないでいた。しかし、
しばらくして彼の顔の毛が抜け出した。友人の獣医に見てもらったところ、見たことのない病気だ、遺伝的なものだろうと自信のない診断結果が返ってきた。
その後、地元の酪農家に立ち話で聞くと、それはFacial Eczemaだろうということだった。それは長い草(Long
grass)を食べさせたからでたのだという。悲しいかな私はそれをWrong
grassと聞き間違ってしまい、何か悪い草が私の所にあるのかなと思うことだった。結局、長い草に宿る悪いバクテリアを食べ、肝臓がやられて湿疹が出来
たということで、近所の羊を飼っている人に来てもらい、特別な道具でのどから薬を差してもらった。さらに別の町の獣医から薬を買ってさし続けると、顔の湿
疹は段々とよくなっていたのだが、今度は、背中の首のところから尻にかけて毛が抜け出した。3cmから5cmの幅で抜けてしまった。
この頃からハエがTintinの周りをうろうろしだした。ハエたたきで叩いたりしたが執拗にやってくる。そんな時毛をめくってみて愕然とした。ハエが卵を
産んでそれがうじ虫に孵り、何千と巣くっているのだ。薬をかけて事なきを得たが、彼にとっては不快この上もなかっただろう。
羊はヨーロッパから来たのだが、同じような草を食ましても土の成分がNZと異なるので、病気になったようだ。それが原因で彼らは病気になり、その物質のひ
とつがセリウムであることを見出し、塩などその他のサプリメントを混ぜて四角の塊にしてなめさせている。彼も置いておくと一人で毎日少しずつ舐めていた。
こちらで育ったよそ者にも同様なことがおこるのではないかと気になった。すなわち、日本で長年育った人間には、同様な食品でも土の成分が異なることで、何
かが欠けているのではないかということだ。
動物を飼いだすと長期間不在には出来ない。しかし、彼らは一つの工夫をしている。草場に育つ木の間に長いロープを張り、それに羊をつなぐロープのはしを通
す。すると2本の木の間のロープの両側、4から5メートルは自由に動くことが出来る。
2004年6月帰国のとき、広場にその様な仕掛けをセットして、不在中時々見てくれるよう隣人のGeorgeに頼み出発した。
ここを離れて10日もした頃だったか、ある雨の降る日曜日、病に倒れているところをGeorgeが見つけてくれたが、日曜日のこととて何も出来ずそのまま
彼は他界した。背中の毛の抜けたところから冬の冷たい水に当たり、体が冷え切ったのか、Eczemaをもたらした肝臓疾患が悪くなったのか、私が居なく
なって寂しさがつのったのか、私にはそれが原因だったように思える。それ位お互いの気持ちが通じ合っていたように思う。子供のようにHugを求めてきた
り、遠くでも私を見てメーと呼びかけたりしていた日々が急に変わったからだろう。
帰るとGeorgeが丁寧に土に埋めてくれていた。杭を抜くほど大きくなり、杭を抜いてもデッキまで来てちょこんと朝まで私を待っていた彼のしぐさなどが
時々頭に浮かぶ。7ヶ月余りの短い付き合いだったが、楽しく共に過ごし、いろいろと彼からも学んだことだった。
コメのこと
向かいのJohnと田んぼの土手で喋っていると、オスのキジが周りをうろうろしている。追ってもまたやってくる。人懐っこく、人に飼われていたのかなと言
い合って別れた。
そんなある日彼が裏庭に現れたので、パンを切って台所の窓越しにやりだした。彼は喜んで食べるが、自然食ではない。その頃、Green
MarketがKWにあったが、そこで有機栽培の小麦を買って彼のえさにしてやった。
最初は気まぐれに来ていたが、段々と毎日現れるようになった。最初の頃は尻尾も短くまだ若かったのが、徐々に長く立派な美しい尻尾をえて、きれいなオスの
キジとして現れるようになった。
私もえさをやるときは、外に出て彼のそばで話しかけながらえさをやった。あるとき私が走り出すと彼もついてきた。温室の向こうを回り丘のふちを通って、北
のデッキの前を通り、畑の向こうを通ってもとの位置に帰ってくるのを、私の運動がてら彼とやることになった。えさをやっただけで中に入ろうとすると、ズボ
ンを突っついて走ろうと請求する。しかし、彼も段々とずるくなり、私が温室を回ってくるのを家と温室の間で待っていて、そこから一緒に走る。さらに、畑の
向こうから回ってくると、また近道をして先に待っている。
その日課が終わると、野外劇場の端の階段を下りてゆき、中の畑を通り、田んぼの土手まで来る。これがいつも彼と一緒に遊ぶコースだ。それからは、飛ぶとい
う私には出来ない動作になる。彼にはそれを断り、土手から川の方向に向って、反動をつけ、飛び上がる真似をしてみせる。すると彼はきれいな羽根を広げ、長
いしっぽを見せながら向こう岸の家族のところまで飛んでゆく。
ある日、中の畑でクワを持って畝つくりをしていると、コメが隣に来て、私がクワを使うのと同じように、くちばしで地面を突っつきだした。足でも土を集めた
りして、私のまねをしているのか、手伝ってやろうというのか、驚くばかりだった。いたずらをするとお仕置きもするが、機嫌を悪くしてかえっていってもまた
あくる日もやってくる。不在でえさをやれない日があってもまたやってくる。
田んぼの米をねらってやってくるすずめを捕まえる仕掛けを田んぼの横に置いていたが、その中のえさを食べに入って、中に閉じ込められるトンマでもあった。
キジは鶏の先祖だとJohnは言っていたが、そんなところも感じられる。穀類がすきだし、子供の頃はオスメスの区別が出来ず、同じ紋様をしている。よく
5,6匹で連れ立って歩いている母鳥を見たことがある。しかし、一夫多妻だそうだ。
そんなある日、コメが、羽が沢山抜けて見るも無残な格好で、疲れ果てたといわんばかりにやってきた。このときは、えさをやっても食べなかったと思う。どう
やら私に別れを言いにきたようだった。それが彼を見た最後になった。子供もよく見かけたが、私になついたのはコメだけだった。
時々近くで例の泣き声を聞くが、彼以外は近づいてくることはなかった。
周りにやってくる生き物達も豊富だ。
動物で
は、ハリネズミ、いたち、ウサギ、
鳥たち
は、プケコ、スターリング、ブラックバード、スラッシュ、トゥイ、ロセラ、ファンテイル、キングフィッシャー、ロビン、イェローヘッド、ツバメ、マ
イナー、すずめ、ウッドピジョン、メジロ、カナディアンダック(渡り鳥が定着)、雉、鷹、かも、
さらに家
畜が野生化したものに、七面鳥、
近隣に
は、羊、牛、馬、ヤギ、猫、犬、エミュー、鹿、鶏、アルパカ。
池にはカ
エル、うなぎ、田んぼには、カエル、トンボが大中小と数種類。せみは小さいものを1種類しか見ていないが多くいる。
これらの
生き物で、田んぼや畑に害を及ぼすのは、多くある。プケコ、すずめ、ウサギ、ねずみなどだ。田んぼには、高さ190cmくらいのネットを張り、畑には、
45cm高の金網を張って、防御している。
3−4) 秋の
手作り音楽会の思い出
音響学を
色々とやってきたが、その中の成果の一つとして、“多硬質性表面(カーペットやグラスウールなど)に、なめるような角度
(さっか角)
で音があたると、その方向に大きな負の反射波が生じる”という結果がある(この項の末の引用文献p.131Fig.7参照)。普通の
ホールの
ような座席の勾配では、この性質が現れて、舞台からの直接音のすぐ後に、前の座席から生じるこの負の反射波を伴い、直接波が小さく聞こえる。回りの境界
(側壁や天井)からの反射波で補強しないと、よく聞えないわけである。
一方、ギ
リシャの野外劇場にいくと、座席面の急な勾配に驚くとともに、舞台からの直接音が以外に遠くまではっきりと聞える事に興味がわく。この座席の傾き
の26.3度(ベルリン工科大マイヤー教授の測定結果)は、この負の反射波の振幅を小さくし、舞台からの直接音からの遅れ時間をより大きくし、直接音が
はっきり聞える役割をしているようである。何故、当時この角度になったのかは興味ある所であるが、それは後で少しふれることにする。
舞台が平
らで回りに何もないと、野原で音を出している様になり、音のレベルも上がらないし、当然、演奏者は演奏しにくい。そこで、舞台に直方体の4面(床
を含む)からなるコの字型の反射板を作り、その空間が与えてくれる固有振動が、演奏者を助けてくれるようにと考えた。いわば自然の楽器を付け加えたわけで
ある。
以上が、
野外劇場の音響学的説明であるが、さらに反射板の寸法比がどのような時によいのか、天井板をつけると固有振動が増え、それがどういう効果を与える
か、インパルスレスポンスを求めながら聴感と比較してゆくなど、興味ある問題は残っている。(今後の課題へ収録)
この様
に、出発は音響学的興味から始まったが、野外劇場の特徴は、舞台でのパーフォーマンスと、周りの様子が一緒になって、楽しめるということにある。緑
の中、星空の下での演奏会を考えるにいたった。
似た勾配
をもつ斜面があるといっても丁度26.3度ではない。段々をつけて若干はギリシャのそれに習って、スタンドに曲率を与える作業は、機械力の導入は
出来ないし、まさに手作りである。夏の強い陽射しの下、何人もの協力で、何日もかけてやっと形が出来た。何とか250人までは入りそうな手作り野外劇場が
出来た。
その間、
面白いことも見出せた。丘の上の余った土を、この斜面に移動していた時に、ここの粘土質の土は、上から放り出したままでは、どうしても急な崖を
作ってしまう。そんな時、川砂を注文し運んできてもらい、ダンプカーからあけた時である。その自然に出来た円錐の母線が地面と30度近い角度を作っている
のに気がついた。現在の所、ギリシャの土も砂地で(現地で確認してみたい)、ある時、斜面の上と下でしゃべるとよく聞えた、という経験則から来たのではな
いかと想像している。
音楽会で、日常生活から離れて、演奏者と聴衆の作る雰囲気に歓喜を見出し、自然の空間に思いをはせて、瞑想の世
界に入ってゆく。緑と星と音楽と、豊かな人
生を求める一時になるはずだ。この場所を実験目的のみにする必要はない。
音楽は神
への祈りから始まったといわれる。天台宗の声明コーラスが、2000年プラハの国際宗教会議に招かれた時、当地で同じく招かれていたカソリックの
グレゴリアンの合唱隊から合同演奏の申し入れを受け、当地での短期間の練習にもかかわらず、多くの参加者に深い感銘を与えたという。宗教をも超えた何かが
あるのかもしれない。
この様
に、音響研究を目的にした出発であったが、1996年3月30日、第1回の音楽会を開いた。この時は、実験住宅も案内した。緑と星空のもとで、年に
一度、秋の収穫を、神に感謝してみんなで楽しもうという会が始まったわけである。第1回と第2回の間が4年空いたので、2005年3月19日の会が第7回
目の音楽会だったが、それぞれを、その日の日記や音楽会での私の挨拶などで振り返ってみたい。
Y.Sakurai;
"The early reflections of the impulse response in an
auditorium”, J.Acoust.Soc.Jpn.(E),8,4(1987).
(i)第1回音楽会(1996年3月
30日(土))
8時に起
きると、青空ののぞく晴天である。早速全員で作業開始。まず、丘の上にある家の台所の前にテントを張り、テーブル(合板でのにわか作り)をセット
した。風車の電柱に、旗もNZを左端に、続いて日本、スイスと並べた。舞台中央にはピアノ用に2つの台を並べた。BrendaがPaulの後を追ってすぐ
きてくれた。お茶の接待を中心にやってくれることになった。
まず、
11時少し前に日本人グループが到着した。続いて、ピアノとスイスケーキを持ってOthmar、音響測定器を持ってGeorgeとMarion、ピ
アノ演奏を頼んでいるNicholeとWendy、次々と約20台の車でやってきた。Othmar、Nichole、Wendyがピアノの調整を始めてく
れたが、どうもおかしい。ペダルもきかない。電源が来ているのか。コネクターは。Wendyがプラグの差し間違いを見つけてくれた。何とかピアノらしく
なった。Nicholeに最初、日射がきついので日傘はないかといわれたときは、一体どのように支えればよいかと思っていたが、日も雲間に隠れ、まさに絶
好の野外劇場日和となった。
結局、
11時の予定が30分以上もおくれてAssembly(集会)が始まった。Heidiさんの挨拶で始まり、このドイツ人コーラスと日本人コーラス桜
の会が、先日東京からの身障者グループ
&
ldquo;ゆきわりそう”とのAKLでの共演で親しくなったのを、さらに深めるためにもう一度ここでやることになったい
きさつ、プロジェクトグループのこと等を簡単に述べ、私にバトンタッチされた。
プロジェ
クトの内容は過去数回しゃべっているので、たかをくくっていたが、やはりあがるものだ。Heidiさんも少しあがっていたのにつられて、最初は少
しぎこちなかったが、何とか概要の説明を終えた。すなわち4つの目的(太陽エネルギー、自然にやさしい材料、無環境汚染、自給自足)、コンピュータプログ
ラムのこと、野外劇場のこと、途中関連している人達、すなわち、配管工のBruce、野外劇場を作るのに尽力してくれたPaul、音響測定にきてくれてい
るGeorge等を紹介しながらしゃべった。住宅のツアーにゆく前に、トイレなど、敷地内を自由に利用して欲しいこと、工事現場なので注意をして欲しいこ
と、この後のスケジュールなどをしゃべりツアーに移った。
外回りを
私が、居室をHeidiさんが、地下室をPaulが、そしてソラールームは狭いのでHiroの案内を予定していたが、ソラールームは取りやめるこ
とにした。グループに適当に分けて、案内するはずであったが、三々五々という感じになった。多くが熱心に聞き、質問もよくしてくれた。Hiroはソラー
クッカーとオーヴンを説明していたし、Bruceも温室の排水管周りを説明してくれた。AkiraはもっぱらVideo撮影であった。
それぞれ
昼食に入ったが、結局は丘の上で食事となった。我々もサンドイッチを頬張りながら簡単に昼食をと思っていたところ、リサさんから日本人のグループ
の方へどうぞと案内された。沢山の日本食をご馳走になった。Bruceまでも一緒に日本食を楽しんでいた。12、3人が一緒になって食事をしているのをみ
て、もう少し他の国の人達に混ざってくれればなあと思ったが、最初のことでもあるので仕方ないだろう。
昼食時、
人のいない間、Georgeと空席時の反射音測定を行いかけたが、人が集まってきたので別の時間にすることにした。Georgeのテレコは2チャ
ンネルあるが、マイク間のコードが短く、直接波の分離がうまくいきそうになく、少し残念であった。
1時30
分から音楽会、近所のJoeとBrian、SaraとHughも来てくれた。Hiroは午前中62人を数えたというから、我々を入れて70人は越
えていたであろう。Othmarの司会で、全員でNZの国歌斉唱で始まった。隣でGeorgeが上手に歌っていた。Marionが喉をやられて歌えないの
で、今回はもっぱら音響測定係というところ。桜の会、ドイツコーラス、それらの合唱、その間をNicholeがピアノ演奏。Othmarのユーモアたっぷ
りな司会で楽しく会は進んだ。途中、Othmarが、これはNZ唯一の野外劇場であること、最初、反射板の無いとき、ここに来たが、のっぱらで歌うような
感じがしたけれど、反射板を取り付けたおかげで上手く歌えると賞賛してくれた。私もこの反射板の効果は良く、成功したと思う。ことに板を直角に曲げたこと
は、この直方体空間で音が生長し、歌手の側からはenvelopeで包まれたような感じがしたという。いずれ、蔦でも這わしてやると、もっと拡散し、歌手
や演奏者にとっても良く聴こえよう。Nicholeも悪いとはいわなかった。コーラスは、後でDoraも言っていたように、もう少し指揮者の近くに集まっ
て点音源化すると良かったであろう。音場としては中段が最高ではなかろうか。周りの素晴らしい景色も見渡せるし、音のまとまりも感じられた。私は大満足で
ある。夢の一つがかなえられたとさえ思った。
音楽会も
無事終了した。各コーラスともあがったとは言っていたが、それも愛嬌で楽しかった。Nicholeのピアノはさすがである。コーラスとは好対象に
安心して聞けるのは勿論、彼女が会得した表現、その自信に満ちた演奏は素晴らしいものであった。いつまでも心に残るであろう。
音楽会の
後のAfternoon
teaも、私はビール片手にみなさんとしゃべったが、スイスベーカリーのケーキと、Brendaのコーヒーで皆さんくつろいでくれていた。三々五々帰って
行った。天気もまさに野外劇場日和(てるてるぼーずよ、ありがとう)、演奏も素晴らしく、野外劇場の音響も良く、何も言うこと無し。今度は、いつの日か夜
空を眺めての演奏会をやりたい。神に感謝するのみ。
図3-4-1
日本とドイツのグループの合唱
図3-4-2 Bramesを演奏するNicholeと聴衆
(ii)第2回音楽(2000
年3月25日(土))
先回から
の念願であった星空のもとでの音楽会がとうとう実現した。以下その日の日記より。
9時前に
起床。茅の修理に来てくれていたNorbertは、自分の大工仕事を終わり、蝋燭立てにするプラスチックのビンの紙をはがしてくれていた。
Grantも測定に向けて作業を始めてくれた。Robも比較的早く現れた。蝋燭立てを舞台まわりに釘で打ちつけた。
Robと
一緒にExperimental
Houseの表示を2時半頃立てていると、最初の客のEwanが現れた。OthmarがChoirのメンバーに早く来るように言ったそうだ。Robは作業
を終えて3時頃帰っていった。夜は自分の仕事があるので来られないといっていた。続々とGerman
Choirの連中がやってきた。節子さん、Othmarも道子さんを連れてきた。その間、Grantと音響測定の準備をした。5時頃にはAKL組が夕食を
広げだし、私達3人も節子さんのテーブルに招かれた。その後5時頃から12,3人の人達を2つのグループに分けて、実験住宅を案内。沢山の人が興味を持っ
てくれた様だ。
コーラス
グループが7時前に練習を始めたが、音響測定の準備は結局、Power Supplyの故障で測定を断念しなければならなかった。
近隣から
の人達も徐々に現れ、結局、80人は超えたと思う。あらかじめ作っておいたシナリオを読み上げ、まず光を木々に当てた。少し動かしてもらったが、
それにも反応があった。GrantがHatfield
Beachで録音してくれた波の音を聞かせ、1/fの説明をし、meditation用の例のテープを聞かせ、その意味も説明。
野外劇場
を作った理由は音響の研究にある事を説明。器械の故障で測定断念を告げた。歌がお祈りから始まった事を説明すべく、声明を聞かせた。
そして、
OthmarにバトンタッチをしてGerman Choirへと進んだ。途中で皆とPokarekareanaを歌い、一同退場。
Austrian
グループの登場となり、4曲のヨーデルを歌ってくれた。最後はアンコールで終わった。絶好の晴天日だった。南十字星を含む天の川を真上に
素晴らしい夜となった。前回期待した通りになった。最後に田んぼを照らして、皆を案内し丘の上に戻る。
あとは、
皆でワインを楽しんだが、コップを出すのを忘れたかもしれない。しかし、みな夫々に楽しんでくれたと思う。Bevも来て、最近テニスが出来なくて
残念といっていた。しかし、2人の魅力的な女性を紹介してくれた。Barbraも来ていた。ReinholtとLinも。Dan、LinとGrant、
PaulとBrenda、Marlin、EmeryとMike、John、HughとSarah、LarsとNina等多くがKWから来てくれた。先回
70人と数えたのでそれからすると80人にはなろう。Sharonが最後まで残り、私やGrant、Norbertとしゃべっていたが、私は先に12時前
に就眠。道子さんも会話に加わったようだが、隣で寝ている筈が私のいびきで一時ソーファに待避したようだ。
快晴の1
日だった。バイオガスはデモ用に使ったが、0.5杯分という所か。クタクタに疲れた1日だった。
以下はこの日の挨拶の原稿である。
「音と光の夜(A night for sound and light)」
(1)地球上の生き物で、人間だけがその欲と傲慢さの故に、持続可能に生きていけなくなった。現在の人類にとっ
て、地球にとって持続可能な生活が必要なこ
とは明白である。それは単に地球温暖化の問題やエネルギー危機の立場から云うのではない。
我々の魂
は何処へ、どの様に行くのだろうか。場面がどう変わっても不連続ではなさそうだ。この興味ある疑問の答えを見出すことにより、人間の魂が解放され
ることになろう。しかし、それを解くには相当な時間が必要であろう。太陽も地球もいずれ消滅する。その間際まで時間が必要かも知れない。そのために、この
素晴らしい地球を愛し、維持して行かねばならない。
安らかな
魂の世界を見出すためには、自然から与えられる歓喜がなくてはならない。自然の中に歓びを見出すこと、それがSustainableの一つの目的
だ。格言は、「歓喜は神からのインパルスだ。」といっている。また、「歓喜を得るにはお金はあまりいらない。しかし、歓喜を得れば王様気分になれる。」と
もいっている。
今夜は共
に楽しもう。
(2)非線形性と非再現性
ここKW
に来て、何と素晴らしい日の出と日没を、幾度となく見てきたことか。それは太陽と雲との戯れだが、我々にとっては、神によって与えられた芸術の様
に映る。それはきっと、人間には創造できない表現を持っているからであろう。雲は気流の乱れによるものであり、科学者は、その乱れを非線形と呼んでいる。
再現不可能であることも同時に意味する。
今日は、
この川に沿う素晴らしい木々を借りて、似たことが出来ないか少し試みたい。人工的光りのファンタジーから宇宙の星の光の連続性を創れないか。この
光の競演のための設定は、向かいのJohn Whelanが手伝ってくれた。
木々の照
明(出来れば、子供達に下で戯れてもらうと考えたが、照明が強すぎて、目に害を与えるかも知れぬと実行せず)。
風と光が
刻々変わる様子は、受け取る人によって、それぞれ異なる印象を与えてくれたと思う。木々とそよ風の織りなす戯れ。こんな素晴らしい空間が自然の中
のあちこちで見られる。これは歓喜への入口であり、すでにそのものでもある。
(舞台の
照明はペットボトルを風除けにして、その中にローソクを立てた。)
(3)音のパーフォーマンス
乱れや非
再現性の事象の中には、色々な秘密があるようだ。浜辺で聞く波の音は、音響学的には雑音だ。しかし、決して我々を悩ませる音ではない。その理由を
説明するのにある科学者は、我々の体の持つリズムがそれに似ていて、その音の周波数スペクトルが1/fの特徴を持っているという。
今日は、
少しこのまわりの音を集めて、少し増幅し聞いてみよう。このセッティングはAKL大で間もなく学位を取る若き音響学者のGrant
Emmsが全てやってくれた。
川のせせらぎの音。
木の葉の
こすれる音と光。
太い配水
管の共振性と気流による乱れの音。
雨の音も
また楽しかろう。
自然との戯れは楽しいものだ。自然の中に芸術の原点があると思う。
(4)音楽会
音楽は神
への祈りから始まったとも云われる。各民族がそれぞれ異なった伝統を育んできた。そして、あの5本の線の上に点を付して以来、それが、うまく世界
の中で地域性をも含めて、表現され、楽しまれてきた。テープ再生でなく生の演奏は、この瞬間の感情で音楽を聴くわけで、これも非再現性があると言えよう。
これから
は人工的な光は消して、この素晴らしい星空に無限の空間への思いを馳せて、演奏を聴きたい。
今日は
AKLからも多くの人達が来てくれた。司会をOthmarにまかせたい。
音楽会がすみ、続いて田んぼを案内。
(5)稲
の実りへの感謝
今日はも
う一つの舞台がある。米は日本のみでなくアジア人の大切な基本的な食料だ。それを自然から恵まれることに祈りを捧げ、先祖を敬うお祭りをして、秋
分の日に(北半球で9月23日、南半球では3月23日)我々は感謝をしてきた。そこに自然との接点を見出そうとするのも1つの考えだと思う。
日本で
育ってきた稲がここKWで育ち、次の世代に引き継がれることを祈りたい。
自然の中にこそ、芸術の原点があり、各人の中にそれぞれの創造性があり、芸術性がある。それらがお互いに尊重さ
れながら持ち寄られて、初めて、魂の次の空
間への脱出が可能となろう。芸術とは自然を愛で敬い、それを通じて神を想像し、それへの感謝、尊敬の念を瞑想の中で発展させて行く手段と言えよう。すなわ
ち、自然の中での自然と共にあることの表現でなければならない。
図3-4-3
暗い舞台で女の子が指揮者に照明の手伝いをしてくれた
図3-4-4 懐中電灯で田んぼの案内
(iii)第3回音楽会
(2001年3月24日(土))
9時前起
床。田んぼにライトをたてかけていると、GlennとLeezaが来た。彼女には月見の飾りを担当してもらった。2人は昼食に帰り、Grantと
Bettyの3人で昼食。その前にBruceが来てくれた。音楽会には帰ってくるといって去った。
追って、
Brenda,Eli,Wady,Paulが到着。Paulは看板立てに。Tatyanaが電話をくれて、3時半に来てくれるといってくれた。私
は、Grant、Larsの3人で、空の野外劇場の音響測定。5時前にやっと終わった。
三々五々
コーラスの連中も来てくれ、5時から音楽会。天気がよくて何よりだ。神に感謝したい。特に「声明」の説明を少しして、予定を変えて最初に音響測
定。音源がうまく落ちないで、結局5個の測定しか出来なかった。30分以上かかったろう。
最初は
「声明」。7人の合唱は何といっても迫力があり、また繊細でもあった。斉唱ではあったが、時々トーンを変えてハーモニーをとっていた。ビートもして
いたように思う。さらに衣装の醸す雰囲気もよく、入場、退場の雰囲気は独特のものがあった。
ドイツ
コーラス、オーストリアコーラスと続いた。そして休憩。
薄暗くな
る頃から、反射板の蝋燭に点火して、異なった雰囲気を得ることが出来た。斉川さんに説明をもらい、はじめの半分の花びらを撒く当たりは神を呼び、
2番目はその神に感謝をし、最後に神を送る「声明」を歌うという説明をした。ろうそくの醸す雰囲気と、少し曇ってはいたが、星空、そして2本の木と田んぼ
の照明。そんな中で「声明」ははじまった。60人ぐらいに減っていただろうか。しかし、よく聞いてくれた。ドイツコーラス、オーストリアコーラスも毎回よ
くなっており、楽しい音楽会は終わった。
懇親会で
は、僧侶達にそれぞれ質問をしていた。隣ではOthmar達が合唱をしてくれた。よい考えだと思ったので私も参加したが、声が大きすぎて少し後悔
した。少し酔っ払って、その後のこと、すなわち誰が後片付けをしてくれたかは分からないが、10時頃、GrantとBettyの3人でIrish
DanceをしていたKWホールへ。最後のダンスにも加わった。
この日の音楽会のスピーチは以下のようにした。
「ハーモニーとユニゾーンのコーラス」
今日は、我々の野外劇場によくお越しくださいました。
光陰矢の
ごとしとはよく言ったものです。この前の音楽会から1年が過ぎ、また収穫の秋がやってまいりました。皆さんの収穫も満足できるものであり、またそ
れに向っていることを期待します。秋分の頃は、自然と神にお祭りをして感謝をささげる時です。日本では、満月の夜に、草花を飾り、収穫物や子供たちへのお
菓子を供えて、秋分を祝います。トイトイをすすき代わりにして、田んぼの近くにその様な飾り物をしてみました。
2年前に
私の母が亡くなりました。葬儀には間に合いませんでしたが、次の大切な儀式である49日には間に合いました。我々の仏教では、たましいは、死後一
週間毎に、より神聖な戒名を得て、7週間後に天国に到達すると言われています。櫻井家の僧侶である斉川さんが私の母の49日に読経をしてくれました。私
は、彼のお父さんも素晴らしい読経をする住職だと言う事を知っていましたし、斉川さんにこの素晴らしい読経を人前で披露し、賞賛し、楽しむ事が出来ないも
のかと聞きました。そこではじめて、15年前に11人のメンバーで「声明の会」を始めたと言う事を知りました。
この会
は、京都遷都1200年を祝って建てられた京都市民ホールの落成式に招待され、素晴らしい「声明」を披露しました。その後、この会は、ノール
ウェー、スエーデン、ベルギー、フランス、チェコ等などに招かれました。
世界の宗
教が2000年、プラハでお互いの理解を深め、それらの間の障壁を取り除くべく国際会議が開催されました。この「声明の会」もこの会に招待されま
した。その練習中、カトリックのグレゴリアン合唱隊が聞きつけ、一緒に演奏しないかと提案してきました。
彼等は以
前に一度も合わせていなかったのに、不思議なほど舞台では両者がとけあい、聴衆に深い感銘を与えたということです。斉川さんが、今年の年賀状でそ
の様に知らせてくれました。
とうとう
彼等をここKWの実験住宅に、AKLから来たドイツコーラスやオーストリアンシンガーズとともに、迎えることが出来ました。歌は切なる神への祈り
から始まったといわれています。「声明」は男性の地声の斉唱で行われます。その上、5線符とは異なった当時の楽譜に従って歌います。彼等は2世紀中国の魚
山に発したオリジナルの旋律を維持しています。「声明」を聞いていると、西洋音楽から得られる感情の高まりを期待できないかも知れません。ヨーロッパ音楽
になじみのある人達は、カトリックのグレゴリアンを思い出して下さい。
今夜の
「声明」は、2部に別れています。最初の部では木や草花を見、雲や青空に思いをはせ、その先の宇宙を感じて下さい。第2部では、願わくは星空のもと
で、心を宇宙へとはせて下さい。毎日の仕事から離れて、われわれ自身は宇宙の中のほんの小さな存在であると考えるのも大切なことだと思います。腹式呼吸を
しながら、何も考えないで気持を呼吸だけに集中すると、冥想するのに助けとなるかも知れません。
ドイツ
コーラスとオーストリアンシンガーズは3回目の演奏です。彼等は一度も金銭を要求したことはありません。日本からの僧侶達も航空運賃など、主たる支
出は皆さんが払ってくれました。我々は幸運であると共に、彼等の愛に感謝しましょう。
今日のプ
ログラムは、「魚山声明会」の「胎蔵界曼陀羅供音用−宇宙と神への祈り−」で始まります。ドイツコーラ
スとオーストリアンシンガーズが続きます。その後、少し音響測定をさせて下さい。
そして、
15分ほど休憩をして、背中を延ばして下さい。ワインなどの飲み物が丘の上に用意してあります。自分のコップは、その後も使えるように印をつけて
おいて下さい。
夕闇が迫
る頃、「声明」の第2部が始まります、そしてドイツコーラスとオーストリアンシンガーズが続きます。
音響測定時に:この野外劇場は音響測定のために作られました。スタンドの勾配はギリシャの野外劇場に習って約
26度あります。オーディトリアムの緩やかな
座席面で起こる大きな負の反射波がなくなり、直接波がはっきりと聞えます。それに加え、舞台には演奏を助ける直方体の反斜面があります。
それで
は、この機会を利用して少し音響測定をさせて下さい。どうか衝撃音の後は静かにお願いいたします。指で耳をふさいで下さい。今晩10個のパルスを打
ちますので、どうぞよろしく。
閉会の辞:このごろ私はよく思います。個人間の相違だけでなく、文化間の相違から我々に精神的なエネルギーや着
想、さらには新しい思考の方向までも与え得
るように思います。我々がここで、このプロジェクトを始めて以来、KWはそのよい例をあちこちで発見できます。今晩Kaiwaka Town
HallではCelticダンスが、私の知る限り、夜7時半に始まり、11時まで行われます。用意された飲み物や食べ物のテーブルを囲んで、文化交流を楽
しんで下さい。
皆さんが
この野外劇場を去る前に、ドイツコーラス、オーストリアンシンガーズ、そして大原魚山声明研究会の皆さんに、今晩ここで上演していただいたこと
に、深甚の感謝を述べます。今晩の準備を手伝ってくれた、多くの近隣の人達、友人にも感謝します。最後に、今日ここに来てくれた人全てに感謝をささげま
す。
図3-4-5
天台宗魚山声明研究会
図3-4-6 オース
トリアンシンガーズ
(iv)第4回音楽会
(2002年3月30日(土))
一度7時
前に起きたが、また寝て、10時半頃起きた。先ず田圃の草刈を終え、竹の囲いをし、スタンドの右側の階段の草刈などしているところに、Robも来
てくれた。ヘルパーとしてきてくれている真由美ちゃんは、9時頃から買い物に出かけ、いろいろと用事をしてくれた。帰ってきた真由美ちゃんに散髪をしても
らった。
3時頃
Brendaが子供を連れてやってきた。3人でスナックなどの準備を始めてくれ、WadyはRobの手伝いをして、表示を配置してくれた。Lars
も来てくれて配線作業。田圃の照明用の柱を立てて、彼に作業を任せた。Othmarも来たのでプログラムの打ち合わせに移る。地下室で私の知床旅情を節子
さんに聞いてもらったが、後の方の高い箇所を維持するようにサジェッションしてくれた。
雨の予報
だったので定刻5時に私が挨拶。Austrian
Singersが来るのが遅れ、間が悪かったが、その間を利用して希望者を募り、Gunterにも参加してもらうことにした。やっと彼らの歌で会が出発し
た。
私の落語
もひとまず終わった。悪くはなかったようだ。David YuとJane
Zouが、続いて、二人で歌ってくれた。これは新しい雰囲気を与えてくれよかった。その後、Janeが一人でイタリアのオペラを歌ってくれたが、伴奏の
テープが少し大きすぎたのは残念だった。
雨模様の
せいもあって、Othmarの判断でインターミッションを早めに切り上げ、第2部を始めた。私が知床旅情を、続いて、Othmar、節子、韓国人
の3人でサクラ、故郷を歌ってくれた。Janeが中国の歌をうたってくれた。彼女は上海で音楽教育を受けたそうだ。Dividも独唱してくれた。中国人の
音楽は予想通り高水準のように思えた。
Gunter
も楽しく飛び入りをしてくれ、Chenさんも面白く歌ってくれ、人が集まって作ってくれる楽しさとすばらしさを満喫し、会は終わった。プログ
ラムは、予定していたロシア人のテノールDimitriが、結局、来なくなったので、まごついたが何とか収まったようだ。
私は少し
飲み過ぎたが、雨も降らず、人との交わり、それが作る楽しさ、大満足に思った。
第4回音楽会(2002年3月30日)スピーチ原稿
「変化」
と「相違」は大きな精神的な、創造的なエネルギーを与えてくれるように思う。季節の移り変わりが前者の例であり、異なる文化、すなわち相違の与え
てくれるインパクトも非常に大きい。
秋の収穫
期の今日、1年の別離を経て、新しい人達を含め、また集まることが出来たのは素晴らしい事だと思う。自然、そして神に感謝したい。いつものメン
バーGerman Choirはこられなかったが、Austrian
Singersが今年も続いて来てくれた。予定していたロシアのテナーはこられなくなった。しかし、Taiwanese and Chinese
Singersが来てくれた。Taiwanese
singerのDavidは、彼の室内楽用のホールの音響について相談を受けて以来の知りあいである。人の輪が国を越え、どんどん広がって行く様子は、こ
こKWに神が意識して与えてくれたものかもしれない。
どうか、
明るい時間から暗い夜にいたるまでの景色の中で、音楽をゆっくり楽しんで下さい。夕闇迫る頃、我々は休憩を45分ほどしよう。そこではワインと簡
単なおつまみが無料提供されよう。
その間、
田んぼを見て頂いても結構です。ただ、鳥除けの網と、そのワイアーには注意して下さい。
今日のこ
の会の準備に、芝刈りをしてくれたRob Sampton、スナックの用意や会場設営をしてくれたPaul & Brenda
Jackson、電気配線や録音準備をしてくれたLars Haakenberg Van
Gaasbeek、草抜きなど多くの雑用をしてくれたWwooferのMayumiなど多くの方にこの機会を借りて感謝します。
図3-4-7
第2部が始まる頃の聴衆
図3-4-8 おなじ
みのオーストリアンシンガーズ
(v)第5回音楽会(2003
年3月15日(土))
8時起
床。音楽会を目指しての最終的準備の作業を始めた。Robが12時ごろ芝刈りに来てくれた。野外劇場、そのまわり、駐車場から野外劇場に行くまでの
道、入口の芝刈りを4時頃までかかってやってくれた。Larsが12時過ぎに電気関連の配線に来てくれた。舞台の照明と録音系をひとまとめにし、残りは木
々の照明用にと基本的に2つの独立した配線にしてくれた。Polaがパンを12袋と赤ワイン6カスク(紙の箱の中の3・入りのプラスチック袋にワインを入
れてある)、白ワイン4カスクを、Larsの来た直後に持ってきてくれた。
3時頃に
は和太鼓の連中も来てくれた。東原さん夫妻もKayから買ったトマトを持ってきてくれた。千代子さんには台所の指揮を頼んで、私は外回りの作業へ
とかかった。三々五々人々が集まり始めた。Othmarが持ってきてくれた電気ピアノの調子がよくなく、キーボードで進めることになった。Georgeと
Marion、Georgeの息子のAndrewとその女友達が来たので、後の二人に簡単にこの住宅の説明をしておいた。
ピアノで
トラブったので、5時半頃から開会の辞。GeorgeとMarion、Grantとガールフレンドも来てくれた。Sarahも来た。ドイツコーラ
スも帰ってきてくれた。そして和太鼓、遅れたがAngela以下の地元のグループ、何と言ってもうれしかったのは侑子さんとFarrelさんが来てくれた
ことだ。尺八も和太鼓もよかった。侑子さんの民謡もよかった。毎年演奏者の数が増えるとともに聴衆の数も増えてきた。詳細はヴィデオでということにした
い。
舞台での
演奏の多彩さ、それらの個性が自然の中の舞台とすごくマッチした。舞台と聴衆の作り出すハーモニーもよかった。今年はさらによかったと断言でき
る。多くの人達ともしゃべった。みんながほめてくれた。
Herbert
に写真を現像して送る約束、忘れずに送りたい。西村君が気配りよく手伝ってくれた。後片づけもしてくれていた。
バイオガ
ス1杯。風車使用せず。曇り、午前中時々霧雨。しかし、音楽会の前後では曇り空ながら雨は一切降らなかった。
開会のスピーチ
今年も実
りの秋を迎えました。1年ぶりに笑顔で会えたことは大変うれしい。初めてきてくれた人達も散見しますが、心より歓迎いたします。そのためにもトイ
レの事を説明しなければなりません。
去年は、
予定した人がこられなくなり、飛び入りで穴を埋めてもらったが、それぞれが個性豊かに楽しませてくれました。今年はそのテーマ、多くの人の個性を
楽しむ、を続ける事ができます。出演者の様子はBugle(KWの地方紙)でお知らせした通りです。ここで順番と共に繰り返しておきます。
出演者、
そして聴衆の皆さんと共に、秋の実りに感謝するこの日が向えられた事を神に感謝します。
私自身は
持続可能のプロジェクトを行っていますが、歓喜を求める事は大切な一つです。この野外劇場は音響の研究に作られましたが、演奏会のためにも使われ
るようになりました。第1回の音楽会は1996年3月でしたが、その時Bramesの曲を素晴らしく演奏してくれた、Nichole
Naldenさんが昨年の11月になくなりました。悲しい知らせですが、彼女の演奏は我々の心に残っています。
ここで、少し音響の話をしておきます。
1)客席
の勾配は26.3度
2)舞台
の箱は楽器と同様、共鳴周波数を持っている。
3)緑と
夜空。
ここの音響を説明するために、私が囲いの外、舞台中央、舞台のコーナーで同じ歌を3回歌います。その違いを聞い
てくれたと思います。Froh zu
sein bedarf es wenig, und wer froh ist, ist ein Koenig.
今歌った
歌のように、歓喜を得るに必要なものは、わずかでよい、しかし、歓喜を得ると王様気分になれる。今日は皆さんそれぞれが王様や女王様です。と期待
します。
今日の為
に手伝ってくれた人々に感謝します。例年によって今年もOthmar Lichtneckerが司会をしてくれます。
図3-4-9 メゾソプラノ
高橋祐子さんのソロ
図3-4-10Koanga
Gardenの地元バンド
(vi)第6回音楽会
(2004年3月20日(土))
いよいよ
音楽会の日だ。しかし、一度5時に起きて例の2度寝をして、10時の寛二さんの電話で起床。買い物を頼んだ。風もなく曇り気味のよい天気。
Othmarにテープレコーダーを持ってきてくれるよう頼んだ。
George
が11時頃来て配線準備。3人で簡単な昼食。Georgeはステップの手直しもしてくれた。Norは表示板の取り付け、そしてテーブルの配置
とやってくれた。あれこれ、5時過ぎまでかかった。DATの調子が悪かったが、幸い古いヴィデオカメラは動いてくれた。一人でのヴィデオと写真撮影では十
分撮れなかったが。
始まる前
からドイツグループが来てくれ畑の説明をした。なすびを、6個収穫。
5時半前
に私が簡単なスピーチをした後、会は始まった。ドイツコーラスが趣向を凝らして合唱しながら入場。その後は、どのグループもまだメンバーが整って
いない。順番を替えてDavid
Yuが独唱で、予定になかった日本人女性4人がコーラスで、穴埋めをし、場をつないでくれた。次第にメンバーもそろい、アキノブを待って和太鼓がはいっ
た。みなさん、昨年と同様、大変喜んでくれた。女性のメンバーが多いのが今年の特徴だった。マオリのKapahakaは結局来なかった。Localグルー
プを最後に、6時半頃第1部を終了。
DAT
(録音機)は取れなかった、と寛二さんから聞いた。途中からMarioとAngela、Schanttiが来たので、先日打診されたこのプロジェク
トのイタリアの持続可能の雑誌への紹介について、イタリアの友人に、このプロジェクトを説明する気になった、といっておいた。2人とも喜んでいた。
始まる前
から準備をしてくれていた、AKLの日本食レストラン「狸」のメインシェフ祐二さんから、一同に、味噌汁、巻き寿司、おにぎり、天ぷらが振る舞わ
れた。これにもみなさん喜んでくれた。カボチャ、ジャガイモ、なすびと、私の畑からの収穫物が大活躍した。
予定の暗
闇が訪れる前には、少し早かったが、TonyのIrish PipesがPart2の最初を飾り、RossのBalinese
Dance(アユのドラの伴奏)と続いた。新しい出し物は、いつも新しい感動を呼ぶ。夕暮れが迫り薄暗くなり始めた頃が、演じるのによいといっていた。
オーストリアンダンスが入った。David Yuも大分練習したようだったし、Andrewの伴奏とも合っていた。
和太鼓の
最後の5人での演奏は圧巻だった。そして、それはStanding Ovationを誘った。この音楽会で最初の出来事だった。
Erick
率いるオーストリアングループのダンスも楽しかった。Balineseといい、これといい、音だけではなく視覚にも訴えるパーフォーマンスが新
しい試みになった。
和太鼓に
大満足だったのか、9時過ぎから人々は帰りはじめた。Othmarと節子さんが最後のduetをはじめた頃には、半分くらいになっていた。例年に
ない寒さが理由だった。
会の後
は、和太鼓のメンバー達を中心に遅くまでしゃべった。Othmar、Georgeが遅くまで残った。Georgeには、ある時私語を注意したので少
し気まずい雰囲気が残った。彼は相当酔っていたと思う。1時頃雑魚寝で就眠。
バイオ風
車使用せず。晴れたり曇ったり。シャワー2人。
開会のスピーチ(2004年3月20日)
親は子供
の面倒を見てほしい。演奏者や他人に敬意を払う教育の場にしてほしい。Intermissionに子供は集ってしゃべればよい。
Kaiwaka
は小さな村だけど、こんなにも多くの国を越えた人々が集まり、音楽を愛することが出来るのは、大きな誇りだ。無料ということを心配してくれ
る人もいるが、これまでの演奏者は、誰一人金銭を要求しなかった。ここに来て、自然の下で聴衆と一緒に演奏することに喜びを感じてくれているからだと思
う。今年もその愛をさらに広め育てたい。
非線形=
否再現性は芸術の根元だ。音楽会でかもし出される舞台と聴衆とのやり取りは、その大きな例だ。昨年は、その典型的な例だったといえよう。それはす
ばらしい想いを、人々の心に残したからだ。人のぬくもりを感じる会であった。今年も似たメンバーで構成されるが、場は新しい結果を創り出すであろう。それ
を私は確信する。皆さん今年もともに楽しもう。
集合ある
いはコミュニティという枠を作った上での場ではなく、たまたま集まった人たちの自由な行動で出来上がったもので、持続可能における個人主義の延長
線上にある。昨年、各人は面白いキャラクターを持っていることを、楽しく示してくれた。今年もよく訓練された人たちを挟んで、比較的普通の人たちにも出演
していただきたい。うまい下手は別問題だ。各人のパーフォーマンスは何かを訴えるものだ。
この作り
上げられた社会では、その様な空間や時間を見出すことが難しいのだ。人の創造性と比べて、自分をより創造的に導くことは、精神的向上そのものだ。
絶えずより多くを期待できなくても、そのなかにも新しい楽しみはあるものだ。人としゃべるだけでも集まる価値はある。多くの友人を作ってほしい。
図3-4-11 和太鼓の熱演
図3-4-12 毎年数が増えてゆく聴衆
(vii)第7回音楽会
(2005年3月19日(土))
8時ごろ
起床。2人とも今日の音楽会に緊張した出発になった。朝食をいつものようにした後、10時にGeorgeがきた。少ししゃべった後、George
はコードの配線に、その後、野外劇場の草刈。私は菜園に水遣りをしていたが、Larsと彼の友人のDenisの訪問を受けた。Denisはここを見たかっ
ただけのようで、直ぐに帰った。LarsとGeorgeとで配線を完了してくれた。メインのステップにも照明をつけた。4人で昼食。Larsはいったん帰
宅。Chrisが早々と来て、Georgeと表示を打ち付けてくれた。
追っ付け
寛二さんが香菜ちゃんを連れてきた。その後、かおる君とみどりさんが来て、早速てんぷらの準備をしてくれた。蝋燭をさしていた4時ごろに、
Barbra、KevinとDereck、Fung
Yangが来た。続いて、司会のGregが来た。風邪気味だったが、二人で入念に打ち合わせをした。椅子はFungが舞台に持って行ってくれた。Ross
も来
た。ドラを垣根越しに運んだが結構重たかった。
George
DoddとMarionも来た。Debie、高垣夫妻、哲子さん、Tatjana、NinaとLarsもきた。Austrian
Danceのチームは5組も来てくれた。どんどん、5時を目指してきてくれた。
5時15
分頃から私のスピーチを始めた。始める前はあまり人がいないように思ったが、見上げてみると100人近くいた。
珍しく地
元のBandが早く来ていたので、トップに演奏してもらった。Sarahがピアニスト、Florianがギタリストで加わっていた。2番目は和太
鼓。5個の太鼓と13人のメンバーで壮観だった。Gregが詩を読んだ後、Many
Handsが演奏してくれた。Fungの一弦のみのErhuは面白かった。続いて、Austrian
Dance。昨年同様優雅であった。最後は、David YuとYehの台湾組のソロでPart1は終わった。
Intermission
の間、Kevin,Dereck,Fungに米と野菜の贈り物。しかし他の人たちにはあげることが出来なかった。てんぷらは相変
わらず好評だった。祐ちゃんが遅れてきた。
Part2
は8時ごろから始まった。トップはRoss。病気を押してよく来てくれた。台湾の2人のあと、和太鼓。13人そろっての演奏は、やはり壮観だっ
た。
Marjke
の14歳の子供が、ギター演奏してくれた。2回目のMany Handsも良かった。Farelさんが尺八とIrish
Wistle。Localが再度登場。オーストラリア人の詩人が飛び入りで入った。
私もソー
ラン節と“上を向いて歩こう“を歌った。文子によれば、会場の日本人も一緒に歌ってくれ、英語でも
Kiwiが歌っていたそうだ。地元の飛び入りの2人の歌が続いた。会は終わった。
三々五々
分かれて、我々は室内に。狸関係で祐ちゃんはじめ4人。IPCから6人。AKLの和太鼓が7人。寛二さんと香菜子の2人。我々の2人。21人で夜
のふけるのも忘れてしゃべった。祐ちゃん以下狸組とみどりちゃんの5人が帰った。
Bring
a
plate.という表現があるが、自分の得意な食べ物を作って、自分の分にふさわしい量を持ってきて、交換して食べるという習慣の意味だ。Pot
luck
partyとも呼んでいる。今回もこれを提示したが、オリーブ油、蜂蜜、リンゴ、なしなどの果物、アーモンドなどのナッツのミックス、さらに花束をテーブ
ルにと、料理以外のコントリビューションをしてくれ、物々交換の基本形の橋渡しになると思った。午前中から午後にかけて、そんな時間を設けても良いのでは
ないだろうか。
バイオ風
車使用せず。朝は曇り、日中は晴れ。音楽会に相応しい天気になった。シャワー7人。アプリコット10個。
開会のスピーチ
1年ぶり
に、にこやかな顔に接するのは大変な喜びです。新しい参加者も散見します。皆さんようこそお越しくださいました。今日はゆっくりくつろいでくださ
い。肩をゆっくりスイングするスペースはありますか。結構です。
やはり大
切な情報からはじめます。皆さんの車は、他の人へ配慮深く止めてありますか。Gibbonsの交通を遮断しないようにお願いします。トイレです
が、屋外に一つ。屋内のは玄関のすぐ右側です。そろそろねずみのシーズンです。出入りのときは、きっちり閉めてください。
昨年は、
私の知らない間に、募金箱が回され、最後に手渡されたときはアイスクリームかと思いましたが、あくる日にお金が入っているのに気づきました。合計
174.60ドル。いろいろ悩みました。結局、地元小学校に寄付しました。この間の悩みはもうしたくありません。今日は以前のように、寄付といえども一切
受け取れません。確かに我々は幸運です。今日のように平和な1日が迎えられるのですから。それへの感謝は各自で考えることにしてください。持続可能に対す
る私の目的の一つは、お金の要らない生活です。どうかご理解ください。
この点さ
らに付け加えたいのは、今日のperformerの全ては一切金銭を要求していません。私も連絡用の電話代くらいで、たいしたことは何もしていま
せん。まさに、人々の愛で今日を迎えました。これ以上にすばらしいことがあるでしょうか。それに少しでもこたえるべく、最近の収穫物を、
performerの皆さんに差し上げたいと思います。お米は勿論、野菜や果物など、上のテーブルにおいていますからお取りください。
さて、今回のプログラムです。パート1とパート2そしてその間のインターミッションの3部に分かれています。具
体的なプログラムは、
Japanese
drummers;今回は2チームです。一つは例年のごとく遠くPalmaston NorthからInternational
Pacific Collegeのチーム、そして新生のAKLのチームです。
Guitar
and base with a Chinese traditional instrument;AKLの準プロのグループMany
handsの主要メンバー3人で、Kevinが組んでくれました。今回はじめての電気的補助を加えての演奏です。ギターとベースに加えて中国の伝統的楽器
Erhuが加わります。
Local
Musical bands(Scottish, Irish music);彼らは当地の2つのeco-villageからです。
歌
は勿論、多くの興味ある楽器で演奏してくれます。
Taiwanese
tenors;いつものメンバーのDavidが新しく同郷のテナーを連れて来てくれました。Andrewの伴奏で歌ってくれます。
Austrian
dance;エレガントなダンスはEric率いるチームです。昨年初めてきてくれましたが、かの国からの雰囲気を伝えてくれました。
Balinese
dance;Rossが2週間前に高熱を出して入院しましたが、まだ完全ではないものの今日も踊ってくれます。
Bamboo
Flute;後半の司会をしてくれるFarelが演奏してくれます。
さてさて、今回はいつも司会をしてくれたOthmarと歌ってくれたSetsukoがこられません。
German
Choirもこられません。時間の都合を見ながら飛び入りを歓迎します。
今回は、
Part1はGregが進めてくれます。Part2は演奏者でもあるFarelが担当します。奥さんのゆう子さんの演奏会がAKLであり、
Part2から参加します。ゆう子さんにも疲れていなければ2,3曲歌ってくれることを期待しています。
Performer
間での即興的ジョイント可能ならば、大いに歓迎します。
Intermission
では、てんぷらを少し提供します。ほんの少しの塩味で楽しんでください。昨年料理してくれた祐二がSimon
Stに彼自身の店を出しました。
とにかく、今回も沢山のPerformerが来てくれました。聴衆の皆さんも舞台とのやりとりを楽しんでくださ
い。すなわち、聴衆の皆さんも
Performerだと私は思っています。そしてそれは再現不可能だから、今日のこの日がすばらしいのだと思います。
図3-4-13 メンバーの増えた和太鼓の演奏
図3-4-14-1 パート2での聴衆
図
3-4-14-2 パート1での聴衆
(viii)第8回音楽会
(2006年3月18日(土))
18日
(土)、8時起床。曇り空ながら雨の降る気配はなく、一安心。舞台の照明の設置。ろうそく立てのチェック。忘れ物箱も取り出した。行灯を配置。
Norbert
には池の周りに柵を作ってもらった。外のトイレの掃除もしてくれた。テーブルの設定は、Norbertを訪ねがてらきたSunielが手伝
いやってくれた。House Ruleも3箇所の貼り付けてくれた。立て札も2人で立ててくれた。
トイレの
使用説明書とHouse Ruleは次のように書いた。
トイレの注意書き
After
you finish, press only the right pedal three times to give
flushing water and then both pedals together to expel. After this,
press the right pedal twice to give additional water and expel.
Thank
you,
Yoshi
House
Rule
Out
of respect for our performers and audience we expect silence during
the performances.
Parents
please mind your children. Please don't let them go near the
pond and cut trees.
No
dogs.
Thank
you
Yoshi
寛二さんも香奈ちゃんを連れて2時ごろきてくれた。ビデオを寛二さんに、デジカメを香奈ちゃんに頼むことにし
た。2時ごろLarsがきて配線をしてくれ
た。例によってそばにいてやらねばならなかった。
かおる君
とみどりちゃんが来て台所で天ぷらの準備。香奈ちゃんもイモ洗いを手伝ってくれた。
Greg
が3時半ごろきてくれて打ち合わせ。和太鼓組みも4時前に無事到着。
駐車場
は、隣のJennyとTatyanaのを借りることが出来た。多くは道に止めただろうが、トラブルは聞かなかった。これにも一安心。
今回は5
時ごろには多くの人たちがきていた。ころあいを見計らいGregと早速はじめた。開会のスピーチは、駐車、トイレ、座り方、などを喋り、てるてる
坊主を歌って、今日の天気を喜びあった。
てるてる坊主の歌;てるてる坊主、照る坊主、明日天気にしておくれ、いつかの夢の空のように、晴れたら金の鈴あ
げよ。Sunny days boy,
please give us a fine day. Just like a fine day came into my dream. If
it will be fine, I will give you a golden bell.
簡単に今日の出演者を紹介。Gregにバトンタッチ。
最初は、
Alter
Ego、Menoのドラムも軽く、JohnのボンゴもPhilの歌声とよく合っていた。こぢんまりとしたすばらしいグループの感じがした。舞台のマイクの
近くで子供たちがダンスをしだしたので、静かにするか場所を移してもらうように注意した。Thursdaysも良かったが、Florianが少し長すぎ
た。Andy
Hamiltonとその友人、彼の歌も良く、バイオリンの哀愁を帯びた曲も良かった。マイクを使わないでやってくれたがよく聞けた。Johnの
Diggersが続いた。お母さんも喜んだだろう。Part1の締めくくりは、和太鼓でいつもながら良かった。AKLとのジョイントもうまくいったよう
だった。別々に練習してきたグループが、KWであってやるのだからと思った。
田んぼでコメつくりの説明。George、Marion、Miも聞いてくれた。20人はいただろう。
皆さん質
問も良くしてくれた。
かおる君の天ぷらも評判は良かった。後から祐ちゃんもきてくれて料理を作ってくれた。
Intermissionの後、サホ、緑、Taniya、Meno、JohnさらにRossが加わって、アドリ
ブの合奏。今回始めての企画。そして、第2
部へと入っていった。Farelさんの尺八も日本の味を、祐子さんの2曲も洗練されていて良かった。Rossがインドネシアの楽器で楽しく合奏してくれ
た。Kaneのギターが入った。Menoもドラムで支援。
Greg
は詩を読み上げる傍ら歌も歌ってくれた。多才な男だ。
この日2
度目の和太鼓。今回はKiwiのLindiがMaoriのTaniaと共に加わった。IPCでやっていたそうだ。少し気温が落ちて湿度が上がり太
鼓の響きに影響したそうだ。聞いていても鈍い音のように感じた。プログラムを少し考えるべきだろう。
星空がき
れいに見えて、満月に近い月も顔を覗かし始めた。嵐を心配したのが嘘のようだった。
Alter
EgoのGerdのヨーデルが最後になったが、8時ごろから聴衆が帰り始め、20人くらいに減っていた。来年は時間配分も検討しなければならないだろう。
また開催時期も。
会場の後
始末を若干して家の中に入ると、それぞれ喋りあって楽しんでいた。ガソリン代を自分達で調達してきてくれたことに感謝し、私のほうからは250ド
ルサポートした。AlanとJasonも参加していたが、彼らは疲れているといって帰ってもらった。
12時
頃、Tatyana宅をTanyaと訪ね、少し喋った後、Tanyaを残して帰った。長い1日が終わり、就眠。
バイオ風
車使用せず。晴れたり曇ったり。ナス10個。マオリポテト10個。シャワーは4人は浴びたと思う。5人目当たりは冷たかったといっていた。
開会のスピーチ
一年ぶり
の再会はうれしい。初めての人たちも歓迎します。
早速です
が、十分配慮した駐車をしましたか。
肩
が自由にゆったり座れますか。
2
つトイレがあります。家の中のトイレ使用に当たっての注意事項は書いておりますので従ってください。
(House
Ruleを読み上げます。)
池の周りや切った木の周りには特に子供はいかせないでください。田んぼのワイアーにも気をつけてください。
今回の天
気は大分心配しました。1ヶ月前に嵐になるといっていたからです。昨日はこの人形を軒下につって子供に返って歌を歌いました。
「てるて
る坊主照る坊主、明日天気にしておくれ。
Sunny
days boy, please give us a fine day. Just like a fine day came
into my dream. If it will be fine, I will give you a golden bell.
いつかの
夢の空のように、晴れたら金の鈴あげよう。」
今日のパーフォーマーを簡単に説明します。
Japanese
drummers; One team is of International Pacific College
students. Another is a team from AKL. IPC students raised money for the
petrol to come. We appreciate that.
Diggers;
finally the Kaiwaka local band got their name.
Ross
and his family will play with Indonasian music instruments. A few
drummers are asked to join in.
A
bamboo flute by Farel.
A
few Japanese songs by his wife Yuko.
Country
music by Steve from Maungaturoto.欠席
Guitar
solo by Kane, He is from Otamatea Ecovillage
Alter
Ego from Warkworth with yodels.
Andy
Hamilton and his friends from Puhoi
Thursdays,
Florian and his friends from near Tutukaka.
Still
we are expecting Anthony to play Irish Pipes.
We
have today’s performers from quite widely distributed
areas in Nothland. We appreciate very much.
Intermission前に田んぼへの案内をして、説明。
今年の私
のパーフォーマンスは、稲です。右に見える稲はもうすぐ稲刈を向かえるところですが、すべて昨年の古株からです。多年生を利用した稲作が、平年と
比べてどの様な結
果
を残すかが楽しみです。是非インターミッションで見てください。少し作り方も説明します。
図3-4-15
Puhoiからのバンド
図3
-4-16 毎年増え続ける聴衆
図3-4-17 和太鼓は今年もハイライト
今後試みたい企画
Peter
やAlanやJohnの絵画や彫刻の作品にスポットを当てる。時間と空間で、個人の創作活動を紹介する。それらを野外劇場からPeterのところまでに展
示
し、散策しながら観賞する。
音楽と絵
を1つに取り込めるか。それが新しい魂の空間を作りうるか。すなわち魂の空間を深められるか。→発展的議論と思考へ。
自然の中
には、そこにもここにも、何処にでも歓びが存在し潜在している。自然からの贈り物に感謝を忘れてはならない。もっと光のファンタジーを強調しても
よい。
第1部に
子供の部を入れる。
音
響学的
な興味もあって作った手作りの野外劇場で、2006年3月8回目の年1回の秋の音楽会を開くことが出来た。毎年、演者もより多彩で、バラエティも
増え、各グループの熱心な向上心で質的にも洗練されてきている。何よりもうれしいことは、彼らは一切金銭を要求しないことだ。したがって、参加者にも無料
で開放できる。すると彼らも、自分の手料理を持ち寄り、作った木の実、蜂蜜、果物、花などを持ってきて、みんなで一緒に分け合って楽しむ、というように、
新しい創造が生まれる。各人がそれぞれの考え方で楽しんでくれるようになった。
演奏者も
口伝えに聞いて、参加を申し出てくれる。ますます楽しくなっている。
自然が豊かだと、そこにあるちょっとしたもので、ほんの切れ端で、何かを作ろうとする気になる。人に見せるべく
ではなく、自分が楽しむために。こんなとこ
ろに芸術の原点があるのではなかろうか。
神戸に生まれ育ち、生活していた大阪の小さな片隅から、ニュージーランドの小さな片隅へと来て、この持続可能の
プロジェクトを続けている。私自身にも、ほ
んの10年ほど前には想像もできなかった。神の采配といわざるを得ない。
もっと
も、世界の多くの国を旅行して思うのは、閉鎖的なのはアジア人、特に日本人くらいだろう。NZの人達も気軽に国を移動し、アメリカにアフリカにと旅
行をしている。大きな宇宙からすれば、高々小さな移動なのだが、この辺りで、日本人の閉じこもりがちな態度は、少し修正する必要がありそうだ。それは個人
主義への第1歩となろう。