第4章 土臭い人間のひとり言

はじめに

以下の短文は、折りに触れメモしてきたものを、少し分類して一個所に集めたものである。時折思った事をまとめながら振り返ってみると、自分の成長の跡をたどる事が出来、さらに、前進を考えるということは、楽しいものだ。

太陽エネルギーが全てというが、太陽の消滅とは時間軸上の概念ではどの様なことなのか。また物理的にどの様なことなのか. そして、それが崩壊するという時点で、人間の生存とはどう位置づけられるのか。
もし、その時まで生き延びることができれば、きっと新しい哲学が見いだされ、次の空間を見いだしているに違いない。是非そうありたいものだ。

太陽、そのもとにある自然との対話を忘れては、人間はあり得ない。また、自然は、全てに寛大に与えられている。

質素な生活

禅を求めて偉大なる名を残した人達は、殆どが托鉢と称して、他人が汗を流して生産した食料に頼って-彼らの優れた芸術作品を代償にしている場合も殆どだが -、その間に得られた哲学を説こうとしてきている。質素な生活をしたに違いないが、これは少なくとも私の言う持続可能の立場ではない。

僧侶の山ごもりの修行は、持続可能な自然共生的生き方の良い手本だ。宗教者はその議論をもっと公開、普及させ、これを一般化して発展させるべきだ。

金持ちや物質主義的追求をする人間が、それ故に軽蔑され、否定される時代になろう。何故なら人を利用した上で得られた結果だからだ。権力者も権力を正しく用いないと、同様に扱われよう。

崩れかけるもの、壊れたものの作る空間(ギリシャやイタリアの古建築の壊れた柱など)。古くて朽ち果てつつあるものの作る空間。これらから自然への回帰を感じる。わび-質素なおもむき、さび-古びて趣のあること、に通じる所は世界共通であろう。

わびとさびは、人間の行為と自然との調和の大切さを暗に示している。「砒素処理をした家にそれはあり得ない」。わびとさびの大切さが大きく浮上してくる。




図4-1 わびとさび
ギリシアのパルテノン、竜安寺の油壁


わびとさびの世界が確立されていた頃の日本は、最も持続可能であっただろう。

この実験住宅の各部分を構成する物質は、本当に人間の自然な生活を保証しているのか。さらに持続可能の本当の形を追求し、一つのプロトコールを創らねばならない。2,500m2への計画の具体化へ向けて、あるべき真の姿への脱却を試みなければならぬ。

人間以外の生き物に学べること、
・鳥は何故公害を出さないか。その日にそこにあるものを必要量だけ食べる。排泄物は草や木を育て、木の苗をも育てる。行動範囲が広いから、その量を集められる。その関係が永年の間に地球と自然との間で確立されている。
・魚は何故公害を出さないか。その時、そこに在るものを食べたいだけ食べる。種族間での葛藤はあるが、人間の食べるものと共通しない。鳥と同様に自然との調和の下にある。
・植物は何故公害を出さないか。一定の所でじっとしている。じっとしているから生長に時間がかかる。適当な時期がくるまで咲かない。適地を見つけるには風や他の動物の媒介がいる。
・獣は何故公害を出さないか。競争は激しいが、そこにあるものを食べ、弱肉強食の関係の上にバランスを作っている。
  結局、人間が傲慢さと欲で生きていること、これが環境問題の源といえる。人間だけがバランスを崩している。

現在の医学は悪くなった箇所のみ治療しようとする。それ以前の原因(例えば、ストレス、食べ物、住環境、など)をよく調べ、それを除外するようにせねばな らない。持続可能にもとづくライフスタイルに依れば、環境といい、食べ物といい、予防医学の上でも良い提案となろう。病気の多くは、本人が犯した人間的な 間違いによって起こっている。規則正しく、常識に満ちた食事や生活をしていれば起こりようが無い。昨今は、好みのものを食べたいという欲望を満たすことを 求め、自分の健康を維持するのに必要だという立場からの選択がない。
健康に生きて、貧しくても豊かな人生を送り、自然な死を向えられることは素晴らしいことだ。

人間が食べ物を加工して生きている姿は偽りの姿のように見える。仮の加工品を食べているからだ。魚を自然豊かな海から釣り、畑の野菜を食べるのが自然の中での生き方だ。

NZには、あのヨーロッパの彩りはない。現在の日本やアメリカと同様、文化を核とした町の発展がない。正に、sprawl化であり、何の感激もない。しかし、自然がある。下手な文化より説得力がある。

子供に物質的豊かさを与えることが親の愛情と考えられた時代がある。いや、綿々としてそうだった。
自分で勉強しようとする態度が、この上もなく大切だ。今よりもはるかに難しい時代がくるはずだ。その時の準備のためにも、その態度はぜひ必要だ。
それどころでは無いという時代がくる。人間らしい生活が出来ないと云うのは、まさに、Seattle酋長の云う"生き残るための人生"ということになる。

自然の偉大さを背景に、偉そうに高ぶって発言してはならない。
もっと深く知ることの大切さを謙虚に述べて行かねばならない。

太陽から与えられるものは、他の生き物と公平に分けあわなければならない。

生け花は、家の直線性(近代的単調さ)を打ち破るため大きな意味を成す。ささやかな、質素なアクセントを与える手段として存在意義を有してきたと思う。

金のない人、エネルギーを使わない人、の方が魂の世界に近づける。
死後の世界にはエネルギーもなく、金もないであろう。したがって、彼等にはその様な空間を想定しやすくなるからだ。
付け加えると、金持ちは人を利用して稼いだ罪人といえる。

Kikuyu(手に負えない雑草)を鎌で刈ることは、非常に効率が悪い。
しかし、それが根を深く張る様子、節目から根を張る様などが観察できる。その事で自然との対話ができるし、自然をよく知る機会であり、本当の知識を深めて行けよう。

グローバライゼーションは、化石エネルギーの枯渇で消滅するのは明らかだ。バイ菌が美味しい食物にたかるのと同じことだ。では、何のための提案か。

質素に貧しく生きろと言う意味は、貧しさのために生きるのではない。貧しく生きなくては求められない素晴らしい人生を、求めるのだと言う認識の下に、貧しく生きるのだ。

鳥は小さな家に住んでいても、大きな自然の下に生きている。人間も小さな家でよい。そして外に出れば豊かな自然。小さな家に住む事は持続可能な生き方の原点だ。

人間は大きな自然に属している。昔存在していた動植物を取り戻して本来の自然を再現し、そこに順応してゆくべきだろう。自生の木を育てそれを利用し、自生の草を育てそこにあった動物を呼び戻し、そこに、ささやかに、つましく住まわせてもらう場を構築する必要があろう。

大量生産による人間の貪欲さが、これまでの有機農法や自然との接点を取り去ってきた。

このプロジェクトは、貧しさも豊かさも知っている世代からのメッセージでもある。

歓喜のある生活

何時も厚いスモッグがかかっていると、宇宙で起こっている現象も見ることが出来ない-例えば、宇宙の特異な動きやUFOの到来も。社会構造の上層部で隠し事をすると、多数が構成する下層の集団は、正しく先を見通すことが出来ず、井の中の蛙となり、大きな不幸を招く。
大きな宇宙への創造も隠蔽されてしまう。これは我々のしてきた行為だ。東京に育った一人の若者は、NZに来て澄んだ星空を見て、その無限性を考えることが 恐怖だと言っていた。数学や物理学にとって、無限、その逆数の0は、大切な概念だ。それを考えるきっかけをも隠蔽してしまったこの大きな罪はどう償ってゆ くのだろうか。

あの希少動物、植物達が持つ繊細で豊かな美しさ、それが永遠に失われて行くことに何も感じなくなってしまっている。もう彼らは帰ってこないのだ。宇宙の何 処へ行ってしまったのだろうか。我々がこれをなくしたのは明らかだ。カラス、雀、kikuyu、ハチ、不愉快なものばかりがはばかる。コンクリートのビ ル、機能のみを持つ工場、醜いものばかりがはばかる。感性の世界も砂漠化した。

持続可能に生きている生き物は、地球全体のことなど考えてもいない、と思われる。それが環境を汚していないことを知っているからだろう。

時間に対する変化が早すぎると、丁寧について行けない。刻々の夕焼け、朝焼けの変化すら表現できない。したがって、一つの言葉で表してしまう。また、早す ぎる変化では、安らぎは感じられないのも事実だ。人間には潜在的なリズムがあるのだろう(α波や1/fのゆらぎの議論)。
季節の変化の描写が、絵画にも音楽にも見られるが、時間的にも空間的にも、その変化ぶりは一断面に過ぎない。それらをともに、上手に表現できないのだろうか。

子供の頃に、朝起きたときに感じた、何か大きな新しいポジティブな変化を期待したあの感覚を、多くが忘れてしまっているのではないか。感性を大切にしなければならない。

生と死の間に何を得ようとするのだろうか。確かなことの一つは、明日への着々とした進歩であろう。そして、死の世界での精神的発展へとつなげて行こうとする努力の過程でもあろう。
では、明日への進歩とはなんだろうか。具体的には個人個人の持つ条件、環境
において為されねばならない。人はそれぞれ違うのだから。そして、人間らしい進歩を考えるとき、大自然、そこに住む鳥、花、草、植物、動物、鉱物、雲、地球上の万物の中に自分を置き、そこを出発点として展開して行くことになろう。
それには、絵画、彫刻を行う上での丁寧な観察と同化、思想の表現、目の前に広がる空間、それをこえた幻想の世界への詩歌としての表現の中での瞑想、そよぐ 風、小鳥の歌等々を感じて歌いあげる。人生を具体的に模索する中での文学、美しさを具体的に模索する中での文学。自然現象のしくみを物理的に解き明かした 時の歓び。
日々、このような場を持つことなくして何になろうか。このように生きることの基本概念をぬきにして、生きる場も人生もありえない。

日常生活において、再現性のある線形的(linear)な変化には、さほど驚かないし、強い感銘も受けない(CDで再生する音楽など)。しかし、非再現性の非線形的(non-linear)な変化には、感銘を受け驚嘆する(雲のformation等など)。

何かをやりだすと次がある。知識を集めるだけではダメだ。音響学でもこのプロジェクトでも、何かをやりだすと、次から次へと楽しく、発展的にことが進んできた。そして、そこに歓喜が見出せる。小さくても新しい発見に出会える楽しみが生まれる。
あれをしてこれをして、といつも心の中で考えることがあるのは幸せなことであり、歓喜の一つだ。何故なら、進歩を目指し実行している態度から、次の世界ではよりすばらしい出発が出来ると確信し、それへの連続性を求めているのに他ならないからだ。

勉強して知識をもっと有効に使い、持続可能性を高めてゆくと、歓喜を求める時間(空間的にも)が拡大する。科学の必要性が明確だ。

感性を大切に。これは良い、面白い、有益だと思えば、周りを見ずに始めること。

日本は、いわゆる和の世界だ。周りを見ながらの議論が多すぎる。これでは独創性は育たない。そうでない場を作らねばならぬ。

歳をとると、時間が早く過ぎるように思う。

毎日の日の出、日の入り、その偉大な現れ方は、太陽と雲の戯れといってしまえば簡単だが、誰にも創造出来ない表現だ。これに少しでも近づかねばならない。言葉で書くことの単調さに比べて、自然の中で感じる直接性。何と豊かな空間か。

私のやってきた音響学を振り返ってみたとき、着々と個人がやってゆくことで、人類の進歩に向って何かが出来ていっていると思っていた(=社会的協力)。そ れは小さな人間の個が発したささやかな理屈だ。悪いことには、それらが人間社会での欲望に歪まされていることだ。自然という大きなふところとの結びつきは 一つもない。その結びつきの中に個人主義がある。歓喜の質とレベルが異なる。

なぜ太陽が天空にあると単純に思えるのか。日の出、日の入りは地球と一緒になって作られていることで、さらに場が素晴らしくなるのだろう。水平線があることで、日の出、日の入りはますます楽しいのだろう。太陽と地球に感謝。

小さくても新しい発見の起こる楽しみ、例えば、このプロジェクトでの
 稲の多年生利用による生産の簡便化
 ソラークッカーの、ガラスの覆いでの収熱効果の効率化
 野外劇場の直方体の反射板設置によるよい音響
等など、大量生産の過程では見いだせないことだ。

自分で自然を具体的に、見て、触れて、感じて、学ばねばならない。知識で行うのとは全く異なる。自分自身で本当に経験しなければならぬ。

鳥、草、花、空、雲等などがそれぞれ異なるように、人間一人一人も異なれないだろうか。そんな素晴らしい自然のハーモニーを作り出す時、たましいの世界を覗くことができるかもしれない。

霊長類として考えて行く中で、たましいの世界を求めて行くというのは傲慢かもしれない。歓びを求めて行く中にこそそれを垣間見ることが出来るのかもしれない。鳥や植物にもそれがありうるともいえよう。

Festive Seasonに思うこと。どこかに行って楽しむのもよかろう。しかし、緑の中で仕事をもしながら、時を楽しめることが出来れば、それの以上にどんな休養があろうか。

Localから出発するのは原則的と思う。多くのLocalで芸術が誕生し発展してゆく。人々の心に豊かさと歓喜を与えながら。それが洗練され中央に集まってさらにすばらしい創造性を与えるかもしれない。だからLocalを大切に育てたい。

各国の人達が自分の国の食べ物、文化を懐かしく思って、それをNZで再現しようとしているのは、多国籍国の楽しみを与えてくれるよい点であろう。
しかし、もっと新しいものを見出さねばならない。
それらの文化は、そこの自然との対話の中で生まれている。英語によって広げて行った文化は論理によっている。さらに、自然と遊離している。それが世界をおおっているのがまた不思議だ。

神からの人間を試す悪魔への誘惑のこころみか。

至高のグルメとは、毎日の残り物を、すなわち、深い濃くのある味をその日のおいしい料理に使って、更なる美味を作ることだ。

Noiseも自然への汚染の一つだ。ここの二重窓でのように、家からの騒音を下げると、鳥達も近くまで来る。3米先の Honey loquatには、ロセラやKingfisherがやってくる。家の中で人が動いても気にも留めない。
歓びは神からの美しい衝撃だ。
歓びを得るには少ししか要らない。しかし、歓喜を得た人は王様気分になれる。(ドイツの格言)

新しい科学を求めて

持続可能な生活を目指すとき、広く知識を求め、種々の試みを積み重ねなければならない。元来、私は浅学で常識に欠ける人間だった。それがこのような生活を 求めて、経験をつんでゆく過程で、一つの試みから結果を得ると、針小棒大に喜んでしまう傾向がある。この項は、そのような人間が時折々に感じたことを、単 に集めたものである。その議論の浅薄さには、ご容赦願いたい。

ある時、太陽自身の放射エネルギーが増えているという報道があった。それが事実だとすると、人間の温暖化への寄与よりも、それによる寄与の方がはるかに大 きいに違いないと思った。しかし、最近は、これとは反対に、太陽の黒点が無くなり太陽の活動が鈍ってきているという。それでも温暖化が進んでいるというこ とは、人間のエネルギー消費活動が膨大であり、それをどう解決してゆくのかを、根本的に解決せねばならない。そして、問われているのは、物質文明に浸り 切って、あくなきエゴを貫く我々の態度であることに議論を置かねばならない。

さて、大量生産方式は、家畜のそれから始まり、工業製品のそれに至り、全てがエネルギー枯渇と環境汚染という大病へと流れてきてしまった。また昔へ戻らねばならない。すなわち、自然の寛大さの中で科学を追い求めてきたあの時代に。

NZの海の汚染はどのように進んできたか。牧場からの糞尿による富栄養化は否めない。徐々に近海で有機物が堆積してきたであろうから、急に尾関浄化槽で処理しても、その低減は即座に検知しにくいと思われるが、それを積極的に使ってほしい。

各種のエネルギー収集をこのプロジェクトでは行ってきた。それらを上手に取り込むべく建築計画し、いわば、一つの家でオーケストラを奏でるごとく、Harmony of Energyを演出したい。

これまで化石エネルギーへの依存が強いあまり、見捨てられた科学も振り返り、持続可能に役に立つ科学について、より深く知ることが必要だ。新しい意味のあ る方向を創ってゆけよう。新しく見出された科学についても、どのように役に立つのかを明らかにして、その研究を深める必要がある。

ここでの研究の多くは、過去の日本で豊かに発展してきた建築計画原論の蓄積を、食いつぶしているに過ぎない。ここで改めてそこに帰り、持続可能を目指し、新しく建築学における科学を進めてゆくべきだろう。

持続可能を目指して必要な科学は何かを議論し、それをもとに教育プログラムを築き上げる。勿論、それは Internetで流す。さらなる科学者グループでの協力が必要だ。研究体制の構成も必要だ。一年一度の学会を催し、項目、例えば、ソラークッカー、オー ブン、浄化槽、建築工法、農作業などを、具体的に議論をする。その成果も教育プログラムに組み入れてゆく。

自然の法則性、人間社会の有り様、これらの中の線形部分をしっかりと分析的にとらまえて、その多変量性を取り去る(数量化I、II類が有効な手法)。それにより、現在の多くの混乱の場がより明確な場になり、進歩させるべき場を見出すことができ、問題意識が明確になる。

羊や牛は誰の教えもなく、自分の食べられるものとそうでないものを、選択する能力を持っている。私も土を触わる時は、すでに何か自分に知識として与えられ たものの上で作業をしているように思う。単に記憶ではなく、遺伝子的に組み込まれているように感じる。                     しかし、事はそんなに単純ではないようだ。この事は遺伝子の鎖が何億もつながっていることに対応するのか。 Reincarnationの結果か。DNAのみではないような気がする。

マクロで捉えると捕まえ易いが、詳細を捕まえようとすると複雑な場合が多い(温暖化現象と天気予報)。小さな単純な構造から大きな場になって、捕まえにくくなる場合もあろう。しかし、何時もお互いを十分比較検討できるようにしなければならない。

学会では散文を避けてきた。これからは提案する論文が、どの様に具体的に人間生活、ことに持続可能性と関わり、何をどう考えているのか、それを述べなけれ ばならないと思う。論理的に完結されたものだけの採用では、大きな成果を見失うことがありえよう。尾関式浄化槽のように、仕組みが十分解けていなくても、 結果がよく出来ているものも論文として採用すべきだ。

「定量的に」という議論は、科学者の傲慢さの現れかも知れないが、欲望の下に広がる経済に先行された場に、打ち勝つための手段である。従って、十分有効なものを見いださねばならない。

工学は人間の傲慢さの表れだ。人間の知恵で、何か支配的なものを創れると錯覚している場のように思える。そして、その時の思考は非常に狭い範囲を見つめている。自然の中で共生しているという認識の中での科学が、考えるべき本来の場である-この設定が出来ていない。
工学は、偉大なる自然に及びもしなかったという認識が必要であり、自然が地球再構築(というより回帰)の原点にならなければならない。この区別が必要だ。すなわち、自然を守りながら人間生活に役立つ手法でなければならぬ。

開発途上国が豊かで幸せになる番。帰るべき時点(新しい持続可能への科学を発展させる点)への距離が短い。物質文明は破壊と退廃へと進んでおり、それをなした発展国においては、そこにかえるのが遠くて難しい。


現在の社会の向かって行く方向は退廃と破壊だ

我々は、何億年も生きねばならぬ、それを目指した科学が必要だ。発明者、科学者の心の底にまで入って行かねばならない。新しい科学的事実を見出したからと 云って、新しくそれを創ろうとしているからと云って、その心が、たましいが、どうなのか、が最も大切だ。純粋さが何処にあるのかが。
新しい科学における物質文明の助長は否定されねばならない。

最近の子供のコンピューター化の中で、コンピューターに心をとらわれさせないようにしなければならない。ましてや、それにのめりこんで偉大だと敬意までも 抱き、人生の一部だとは思わせてはならない。人間としてやるべきこと、その空間はもっともっと広いと云うことを教えねばならぬ。計算は電卓頼み、人生もコ ンピューター頼みではだめだ。それらは道具なのだ。

科学と言っても、化石エネルギーに群がって、名声のため、富のためにと低いレベルの欲望でどれくらい動いてきたかも、振り返るべきだ。
名誉欲、金銭欲が、その背景にあったに違いない。ここで、それを否定し、魂の世界を求めて科学することは、高い精神的レベルでの活動であり、それのみで大きな飛躍であると認識して、研究を続けねばならない。

科学は金を原動力にして発展してきた。したがって、金がより多く得られる方向へと、精神的には負の発展をしてくるとともに、その科学がより興味を持って支 持してくれる方向へも動いてきた。持続可能をゴールに設定した時、本当にそれが必要なのかの判断が加わり、異なった科学の場の設定が行われるであろう。

絶滅して行く稀少種、それらのもつ美しさから、想像の世界への足がかりも取られて、そこから勉強する事もなく、本当の自然が失われていく。それが人間の手 で再現できないという現実、その存在性(自然の中での役割、与えられた美しさ)、どうして、その大きな損失を、こんなにも意識や認識の一部にすら位置づけ られないのだろうか。

写真やヴィデオもよいが、彼等の与えてくれる雰囲気、場、状況は再現できない。
CDが、そのテクニックの故に20kHz以上が再現できない様にする事も、星空が見えない様にする事も、同様だ。そして、同等の罪がある。
日本の空が、星空を隠している事(物理的にも人為的にも)は悲劇だ。そして、神の支配する自然が歪まされ、自然との対話が限られ、すでに間違った所に自然 を感じている。学ぶ場が間違っているから、うんと歪まされ、本当のたましいがあるべき世界から、われわれ自身がどんどん遠くへ離れて行く結果を作ってい る。
私自身もその歪みの中にいる事を忘れてはならない。

近代科学が生んだ副作用を補う科学、そんないたちごっこがGEによって起こる。
そこに人間のエネルギーを投入せねばならなくなるのは明白だ。
そんなネガティブな生き方をしてはならない。
日本人のGEに対する戸惑いは、新しいエネルギーだ。
そこからの本当の新しい民族としての出発がある。過去の歴史から見てもよい位置にある。

GEの研究の終局は、人間の命の科学にいたろう。
しかし、不完全のままでの応用は、これまでの科学的提案が犯してきた過程と同じ道をたどろう。命の神秘性はもっと気高いものだ。
GEの失敗をつくろってゆく時代がやってこよう、過去の科学、工学の失敗を、そうしてきたように。GEの導入は、集団自殺行為になるかもしれない。
そんな危険をおかす必要は何処にあるのか。仮にうまくいったからと言って、精神的に、哲学的に何が得られると言うのか。それによる進歩をどう説明するのか。
やはり、破壊と退廃の方向が見えてくる。
GEを、生命を研究する科学と呼ぶことは、許される。
しかし、それを利用して金銭をより多く得ようとする人間は許されない。
まずいことが起こると、彼等は、必ず科学者のせいにするだろう。科学者も、金や名誉のためにやっているから、色々と逃げを打つだろう。
泥仕合、悪循環の始まりだ。
生命の神秘を求めると言う意味で、この研究は大いに必要だと言うことは当然だ。

持続可能の個人主義の社会になると、あらゆるシステムが変わってくる。学問形態(例えば、社会心理学は前提が明らかに異なってくる)も、芸術も何もが変わってくる。
人間の培ってきた自然の真理を求める科学は、何と素晴らしいことだろう。さらなる発展に停滞があってはならない。大きな自然を見つめ、それを説明し、たましいの世界への流れを、解明するために必要だ。
しかし、ここではっきりと否定するのは、それを安易さのため、欲望のため、利便性のために利用してきた現社会の態度を非難するのだ。
人をも実験台にし、GE等とうそぶく人間の心の原点を非難するのだ。
人間の病気を治すために用いると言うが、これも金のためだ。食物の生産にもという。何故その必要があるのか。多くの有機農法をやっている連中は、そんなことなしに、十分生産している。やはり、より容易く、多くを収穫したいという欲望に他ならない。
遺伝子の仕組みがはっきりわかって、そこでの相違が、どの様に人間に病気を引き起こしてきたか、その議論はその点で論理的だが、実際にどの様に人体が構成 され、それにどう働きかけているのか。生命の起源を探す意味で素晴らしいテーマ性があるが、それから利益を求めようとする蟻が、密にたかって行くような行 為を非難するのだ。
ゆっくり待とうではないか。科学者が解いて行くことを一緒になって理解し、生命の複雑さに感銘し、更にたましいの世界へと見つめて行こうではないか。
GEの研究の終局は、人間の命の科学にいたろう。しかし、不完全のままでの応用は、これまでの科学的提案が犯してきた過程と同じ道をたどろう。命の神秘性はもっと気高いものだと思う。
過去の科学工学の失敗と同じように、GEの失敗を繕って行く時代にしてはならない。
水素が地下のマグマに存在しているという事実は、最も軽い元素でも、地中に存在し得るし、重い元素でも、十分大きな宇宙へ誘引されて行く可能性はあるとい うことではなかろうか。DNAは永く地中に生き残っているという。それは輪廻転生(Reincarnation)の可能性を物語っているのではないか。 ニュートリノ-地球を通り抜けるものがあるという。素晴らしい想像の空間を与えてくれる。

創造性とは

一次線形の解は、人間が生きてゆく上での基本的出発である。だからもっと丁寧に解析し、多変量的にも解を求めなければならない。すなわち、常識は常識として納得して、その上に立って各人の創造性をもとに、素晴らしい空間を創って行かねばならない。
人間生活への線形的な拘束はあり得る。しかし、非線形性による拘束はむしろ必要ではない。

DiscretenessとContinuity。物理的な不連続を連続と思わせるものは、学習効果が主であろう。教育や情報がそのように与えられること は、脅威であり怖いことだ。洗脳されるのと似た効果となろう。このことは、ことに社会現象において気をつけなければならない。(錯覚というのも学習効果と 関連があるのだろうか。)

我々のささやかな思考の流れは、そんなに強いエネルギーを持っているものではない。
しかし、その考える一瞬がまた大切だ。その時のひらめきが。
それが停滞した人間が常識論を繰り返す。

正月を祝うために松の飾りもよいが、植えた松の種の育つ様子を見る方が創造的セレモニーではないか。

働いた日々の後の休日。働いた後の休み時間。いずれも解き放たれた瞬間であり、冥想的時間だ。そこから躍動性が作られるのだ。
観念でのみ休みを作ってはならない。人間はもっと深く考えねばならない。そして、その考えを持ち寄って、神の支配する宇宙空間を見て行かねばならない。

単なる観念論と実際に実行した結果からのコンセプトでは、後者においてのみ、すばらしい発展的な啓示が得られると思う。

死後の世界への永続性を求めて生きること。持続可能な生き方→自由が得られ、解放される →喜びのある生活→そして、死後の世界にも新しい展開があると信じて。それをイメージしなければならない。
この様な場は、人間の最後の大きな課題、死後の世界を解くために必要な解放と、開放の場だ。そこでは、私の専門分野としてきた音響学、持続可能の研究も楽しくできる。

源点には何時も創造性がある。そのエネルギーは徐々に形式化され、組織化され(多くの場合、それは理想的に構成されないで)崩壊してゆく。
膠着状態がくると、何もかももう一度原点に戻るとよいと思う。コンサートホールの例-ドイツのLeipzigにあった靴箱形の Gewanthausから、多くの形の変化を経て、その時の靴箱形へ回帰しようとしているのもその例だ。

工学(含むGE)はあくまでも物質的だ。文化的創造性、哲学的法則をそれによって見出す事はできない。単なる工学的持続可能、すなわち、太陽エネルギーに 依存して生きることはまったく物質的だ。生きる目的を探求し、それを楽しむ、あるいは、楽しむ事によって生きる目的を探る立場、とは異なっている。

俳句や和歌、あるいは詩を詠む気持ちは、心の安定感を得る依り所として用いられてきたと云えないか。悟りの気持ちで自然を見ないと、人に感銘を与え得ない。
でなければ、形式的、人工的、技術的なものになってしまう。

ある言語を日常用語にすることで、人間の発想が固定される側面を考えねばならない。さらに云えば、そこで育った文化にも、その言語に影響された負の面があるのではないか。

言葉による表現は、思考の伝達や交信の手段であり、それはごく限られている。
人間の作った定義、それも小さく限られて。各個人の位置づけ、生き方は自然の中、それとの対話で見出さねばならない。表現できなければ、する必要もない。
言葉で書くことの単調さと、自然の中で感じる直接性。それは何という豊かな空間か。

文化も多くは富の方向に流れてきた。自然の方向に流れるべきだ。風土主義(Vernacular)の上に立つ持続可能な空間には、昔から多くの豊かな文化 が生れてきた。それをよく丁寧に観察し、消してはならない。日本はこの150年、その多くを消してきた。俳句、和歌、歌舞伎、浄瑠璃、狂言、等など。

コンクリートの中から文化を発するのは難しい。一見文化のような創造も、所詮は、人工的なものからほんの少し脱皮したに過ぎない。

きれいな景色の描写といえども線形(linear)だ。もっと非線形(non-linear)な自然の現象を目指して表現すべきだ。そうすれば想像空間、瞑想空間へと広げられる。

時間に対する変化が早すぎるとついて行けない。夕焼け、朝焼けの変化すら表現できない。また、早すぎる変化では安らぎは感じられないのも事実。よくあるのが季節の変化の描写、空間的変化と時間的変化を、同時に表す方法はないものか。

未知の世界へ入って行く興味と自然との共生を、確立するための科学。

子供っぽさ(Child-self、Childlike)を、何時までも持ち続けることは大切だ。毎日朝起きた時に、その日に何が待っているかと目を輝かせたことも、一つの例だ。
それは創造力の原点でなかろうか。

天井の2枚の合板のつなぎ目を、少しの幅の板で覆うと、両者の木の目が連続的であるかのような錯覚を起こさせる。その板の幅が大きくなると、錯覚も大きく なる。不連続でも連続と思わせる間違った場(空間的、時間的)が、社会には多くあることだろう。注意を怠ってはならない。
しかし、それとは別の意味で、曲線から何かが始まるといえるかも知れない。
直線は、ずれていると簡単に不連続を感じる。しかし、これも曲線でつなぐことは可能だ。両者の面白い補完性は、絵画の表現や生け花、彫刻、あらゆる所に存 在している。それを追い求めて行くことは面白そうだ。木の目は、すでにそのような高次な自由な表現の創作を知っているのだろう。

雑然たる社会の様子を見ると、何も創造的なことが起こっていないように見えるが、新しい創造性は必ずあるはず。それを雑音が隠蔽しようとしても、見出して、励ましてやり、連携せねばならない。

幸せだと言う気持、歓喜のある気持ち、深く考えて次の議論へ向える満足感を得た気持ち、次へ向ってのポジティブな気持ち、このような環境が観念 (Concept)の世界への橋渡しとなろう。地球的環境が作ってくれる、そんな空間を実現させ、充実させて行く中に、次の世界への流れ(すでにステップ ではない)を見出せるのであろう。

社会の拘束から解き放たれた自分を考えてみろ。個人はそれぞれ素晴らしい思考と想像力を持っている。それらが次から次へ発展して行くのだ。私はそんな環境に恵まれていると思う。他の各個人にも同様のことが出来る。それを説得したい。

色んな持続可能への考え、経験を、次から次へ積み重ねてゆくと、その度ごとに歓びを得られ、また、多くを勉強する。
より若くから持続可能を始めると、より早くに一定レベルに到達し、軌道に乗り日常性を確保でき、自分をより磨いて行ける豊かな生活が得られることになろう。何と多くが得られることか。

創造とは、健全な持続可能な生活の中から生まれるもので、その一部分だ。そして、そのような創造から次の展開を見出してゆくのだろう。
待っているだけでは創造は出来ない。

男と女の存在

男女の結びつき、恋愛における責任とは?責任の追求で、それを維持するのは間違いではないか。そこで創造される無限のエネルギーを議論の対象にしなければならないと思う。

肉体の交わりによる歓喜は、次の世界では見出せないかもしれない。死後の世界では肉体とは決別しており、現世でのみ感じられる歓びだ。その歓喜をすばらし く追求しなければ、不完全な地球上の生活だったと言うことになろう。男と女の存在意義を理解するために、神から与えられた場だからだ。ただし、エネルギー が不必要と思われる次の世界では、その歓喜で満たされた場だと言う説もあるが。

これまでの倫理観は、物質文明や社会機構や宗教を支えるためのものであった。恋愛を怠惰なものと決めつけ、労働力へふりかえ、利用者側へ結びつけた。すなわち、性と怠惰を結びつけ、前者を否定してきた。
持続可能な生活が確立されると、それが解放され自由となる。それが証拠に動物達に自由な性が許されているのだ。ただし、食糧生産、エネルギー取得を怠ると、生活そのものが崩壊する点を忘れてはならない。自然は偉大なる教師でもある。

個人(自分)があってパートナーがある。そのユニゾンが新しい創造性に向かって有意義に働かねばならない。それを試行錯誤する中に人生があってもよいはずだ。それを既存の社会構造から批判し評価してはならないと思う。
料理も一緒に楽しみながら、栄養学も勉強し、料理法も色々と試み、協力し合うべきだろう。一つの日常的作業を一方だけに押し付けてはだめだ。十分補完して分け合う方法を見出すべきだ。

二つの性の持つ相違点のかもし出すハーモニーは、どのように創ってゆけるのだろうか。同様な科学的、知的空間でそれを創り、進歩を求めて行くことは可能か。興味ある問題だ。
物質文明でのそれは退廃と思うが。

人間の求めている歓喜は、ほとんど肉体と共にある。これが世俗的な(Earthly life)生活の大切な部分であろう。それぞれの場から得られる歓喜を、それ故に、肉体を超えて、あるいは分離して、追求する時、次の世界への発展的移動の道を得る事が出来よう。
愛に満ち、そのとぎすまされた創造力が、人間の本質を語り、深く求めて行く場を創るのだろう。

男女が利用し合う関係では意味がない。頼り合う関係でも意味はない。創り合ってゆく関係でなければ。

男女の関係のことを一般化して議論するのは、難しい。いや、不可能だろう。何故なら、各個人が、具体的な背景を持ち、具体的な相手と対するわけだから、議 論が出来ないのは当たり前だ。それよりもその具体性の中で歓喜を求めるべきだし、それに幸福感が得られればそれでよいのだ.

二つの性の存在について、その結果としての子供の存在は、ほとんど議論として取り上げてこなかった。私には語れるほどのものをこれまで残してこなかったからだろう.

東洋と西洋

—東洋とくに日本では、大きな自然があって、そこに、人間的な小さな乱れの導入が、かもし出す雰囲気を、楽しもうとする。
マイナー調を生み出してきた。ある意味で、大自然を認めた上での哲学的思考で、人間の存在を位置づけようとしている。思考の発展が止まるとそれを大
自然に託す(そこに本質があるのだろうか)。鳥や虫の鳴き声は、符号化、或いは形式的な音にして表そうとする。地震、津波、台風を含む、強い太陽のエネル ギーの影響をしばしば受ける日本のような国では、大いなる自然に畏敬の念を示し(Animism)、その結果として、わびとさびの概念が生まれる。
そして、そこに自然との接点を見出し、語りかけ、悟ろうとした。生き方を考えるという場としての一つを究めている。それが残念ながら無くなろうとしている。大自然を敬ってきた態度、そこからは、交配(F1)の概念が生まれる。
—西洋においては、暗い、太陽エネルギーの少ない気候、そこには自然や他の社会を征服する必要があった。そのために、メランコリーになっていては、意気消沈するばかりで、絶えず元気づけることが必要であったに違いない。
Majorが基調となった。鳥や虫の鳴き声は、忠実にシミュレートしようとする。音楽のみならず、絵画も色彩を多く使い、それを好む。自然を真似て、自然を表現し、新しい創造を生みだそうとする。自然を征服しようともしている。傲
慢にも映るが、生きることを探そうとしているとも映る。征服、挑戦、そこからGE(遺伝子組み換え)の概念が生まれるのだろう。
—この様に、ことを一般化してみてしまうのは危険だが、このような大まかな考察から、東西文化の合流点を求め、新しい創造の場を見出したい気持ちに駆られよう。
国、種族等に、それぞれ固有の言葉、表現があり、それがその社会の歴史の中で異なる文化、習慣を創ってきた。それ等の空間が比較対照され、更なる創造空間のエネルギーを与え、精神面での発展の大きなエネルギーを与えてくれよう。

記号、アルファベットで作る文字を見る事と、物の形や思考までとり入れた象形文字-漢字を見る事で、コミュニケーションをする事の相違が、表現や思考の上でどんな相違をもたらすのか。現実的に多くの相違が起こっていると思う。
例えば名前を覚えるとき、西洋人は音で捕まえようとする。日本人は、文字で捕まえようとする傾向があるように思う。

未完成でも恥ずかしがらずに、提起してみて、その反応(第三者の意見)で自分を磨くことも大切。人間は初めから完全ではない。東洋、特に日本人の悪い癖。

貪欲さこそ改められねばならない。穀物や野菜などの大量生産による利益追求のために取り求めてきた態度、土地や富をより多く求めようとした態度、その蓄積 からは、何ら精神的な発展は得られないし、求められない。それに反して、謙虚にそれを見続けてきた人たちの存在も忘れてはならない。何か彼らに不安を感じ て。けだし、欲望を対象に行う商法は否定されるべきだ。人への敬意と慈愛が根底になければならないと思う。

牛や鶏を大量生産するという発想は、日本人にはなかったように思う。そして、自分、あるいは家族のための食料生産を考える、という態度をとってきたのだと 思う。その意味で、他人の食料までさらに沢山作って、人を支配下に置くための方向へは進まなかったと思われる。すなわち、持続可能な根源的な場を求めてい たのだろう。
そこに村の概念をおき、封建社会というヒエラルキーを作るという作業を綿々とやってきたと言えよう。他人を利用して、ずるく生きようとするには、力が必要だったのだ。

日本は開国以来、物質主義を追い求めてきて、江戸時代およびそれまでに培われて来た固有の文化の発展を止めてしまった。物質文明におけるいろどりに利用するにとどまってしまった。
その原因に、世界を導いている英語(最も単純な言語)使用による物質文明への移行が根底にある。さらに、言語と精神、たましいの問題を議論するのは面白い。

ヨーロッパ人の個人主義は歴史的にも非常に強く、個人の欲望を否定するのに大きな努力が必要になる。でなければ利己主義になるからだ。一方、東洋人のそれは個人主義の要素が希薄故に、個人を主張しすぎる事がない。しかし、慈愛も薄い様に思える。
ヨーロッパ人の戦いは、自然に対するものであったが、その流れの延長線上に、人の間での戦いを設定してしまった。
東洋では、自然を敬う生活が基本になっている。季節を祝うお祭りもその例だろう。

永い歴史の中で、その土地で培ってきたものは偉大で貴重だ。現時点での短い議論や観察から得られるものと区別して議論するとともに、今はそれに基づいた次の未来を作る時だ。これまでの侵略主義は、個人のレベルで捨てられるべきだ。

日本人のGEに対する戸惑いは新しいエネルギーだ。そこからの本当の新しい民族としての出発がありうる。過去の歴史から見てもよい位置にある。

一つの音節、例えば、「キ」に多くの異なる意味(木、気、機、期、、、、)がある事は、一つの音節に十分注意をして聞く必要がある事を示している。日本語はそれに強く影響された文化を作り上げてきた。

物質文明を導入し、展開させてきた西洋人の間で、地球環境を危惧する人達は、すでに相当数にのぼっており、その方向での活動も積極的になっている。一個人 の心における比重も非常に大きなものになっている。Minorへ近づく背景を感じる(例、reincarnationなどMajorと Minorの項参照)。自然環境が大変豊かなNZでもその関心は深まってきた。

ヨーロッパ系の人達のいうSpiritualとかSoul(両者間には少し相違点があるようだが)というのは、絵や音楽の表現が示すたましいのようである。
我々のそれは、死後の世界へのつながりを持つそれである。
すなわち、前者は、現時点を議論しているのであり、後者は、その後の事を議論している。したがって、前者の議論においては時間軸を広げて行く必要がある。

精神論

人類の地球上での進歩と言われるものは、自分達で作った地球の変化について行く事を言うのか。それはガンを生む根元だ。
昔のままで生きていても、精神的進歩(Spiritual Evolution)はあったはずだ。

大きく他人に依存している空間がある(関与しないようにしている、あるいはふれたくない空間)。それは丁寧に合理的につぶしてゆかねばならない。そこに悪が現実的に存在していることが多いからだ。

都合の悪い議論には耳をかさない(無視する)社会になった。
私を含めて個人もしかり。

‘仕方がない’という言い訳をそばにおいて、逃げて行く時が来た。信頼でできた空間を食いつぶして行く時が来た。誰も信じられない時代へ向っている。

何時でも逃げられる世界が、どの様に築き上げられてきたのか。
もう逃げる場所はない。

幸せは何処に。
数年前に講義で学生に話したことがある。“手にミネラルウォーター、背中に新鮮空気の詰まったボンベ、それでも日本の社会はそのまま動いて行く。”
何を求めてだろうか。人間の傲慢さではない。むしろ考えの無さ、無知なだけだ。
全てが持続可能な生活を忘れ、生きる自信を無くしている。

欲望に先導された大きな渦に流されないで、持続可能の生活を基盤にし、地球に負荷をかけないで系を閉じる、人間らしい生活。ここで始めて個の開放がえられる、

・ 生きる意味を考える。
・ 生きることに楽しさ、豊かさを求める。生きることの美しさを考える。
・ 連続性があると思われる死後の世界を考える
・ 輪廻転生から解脱、悟りの世界へ。

太陽系が消滅するまでに解かねばならない人間に課せられた命題と思う。

環境問題の解決に向けて、間に合うか、合わないかを議論するのもよいが、自然と共生する場を探す過程が、人間性回復であり、次の平面-死後の世界-へとつながって行くのではないか。
事実、完結はめざし得ない。人間の業、エゴ、これは完全には否定し得ない。しかし、否定する努力をして、精神的なより高いところを目指さねばならない。

みんなで協力し合って場を取り戻そう。草の臭い、土の臭い、きれいな水、新鮮な空気、そこが、思考が出来る、思考をする唯一の場だ。日本の文化はそれをし てきた。歴史とはこのことだ。遺伝子を持っているはず(輪廻転生)。さらにこれを発展させると、他の地域よりも崇高な思想が展開できるはずだ。

物理的に死ぬのだと思えば、そして、DNAが何千年も地中にあるとすれば、輪廻転生は起こり得よう。従って、肉体を介しての歓喜であっても、その物理的側面を排して、それを乗り越えて悟りの世界へ、と精神的な進化、進歩を遂げて行かねばならない。

自由に考える空間を持ち得たことは最大の喜びだ。社会の拘束、すでにその枠内での要領で生きてきた人間には、それが背中に背負った十字架になる。そんな生き方は私には出来ない。

田んぼの鳥よけネット、菜園のウサギの侵入防止のための金網の囲い、人間も他の生き物と共存し、自然のなかに、生きるための場をちょっぴり借りているの だ、という気持ちが必要だろう。大量生産するには大規模にそれをしなければならないから、侵入者を殺せとなる。大きな立場の違いが生じてくる。

老いが誰にでもやってくるのは厳然たる事実だ。日本人の老後の生活がいかに貧しく不安定か。
持続可能の組織として、それをどのように改善できるのか。体力の衰えによる労働力の低下、それに伴う不安はなんともいえない。しかし、培ってきた経験がそれを助けてくれよう。

認知症は、正直者によく起こるという。ある意味で、神から与えられる解放か。

自然と共生する昔の生活の仕方が、現在の若者には、十分伝えられず、無縁の場に追いやられているのが問題だ。我々がその架け橋にならねばならぬ。生きてきた人生71年、こんな激変の中を生きてこられたこと、多くを伝えたい。

尾関式浄化槽の最後の残渣(食べ物を介して土から得た無機物)を土に戻すことで、人間が生きることで負荷をかけてきた系を閉じることになるのではなかろう か。では、この系のなかで人間はなにをすることになるのか。生きるとは?物質的には閉じるサイクルを作ったわけだから、精神的な部分の進歩を目指すという 部分が、分離されて取り出され、そこに生きがいを見出し感じたい。

次の世界でよいスタートを切りたいと思う(願うのではなく、自分で信じてそれへめがけて努力することをいうのだが)のは、誰しもだという、常識だという。本当だろうか。

物質的にも精神的にも、貧しく一生を終えることが出来るなんて、なんとすばらしいことか。ご苦労様とたたえてあげたい。

私はもっと長く生きたい。神が与えてくれた地球上で、学ばねばならないことがまだまだ一杯あるからだ。
自然の中で、人間は何をすべきかを考えねばならない。生きる意味が何より大切だ。自然は、生き方をしっかりと教えてくれる。

健全な社会のために奉仕することで、存在の意義がある。お互いを尊重する、そして、慈愛。それは仏教の基本的概念だ。しかし、この概念は、唯一、持続可能な生活を確立した時、初めて意味をなす。

持続可能になって初めて、鳥の持っている自然に負荷をかけず、欲しいときに欲しいだけ食べて、自由に生活をエンジョイする場が得られる。生き方としてやっと肩を並べられる。そして、人間とは?を考える空間を見いださねばならぬ。最も賢明な創造物というならば。

ある人は完全さにおいて、遥かに高いレベルを求めている。しかし、それは受ける側に立ってである。これは本来の創造ではない。他人のperformance(音楽や思想)を聞いて、瞑想の世界へ行くことは、酒を飲んで夢を描くのと一緒だ。自分の場と自分の表現が必要だ。

自分の中に閉じこもるのはよくないと思う。洗練されていなくても、私の一生は、徐々に、でよい。46億年の間に完結すればよいのだ。少しずつ創造的であればよい。

地球が太陽から離れて出発してから、人間が形成されるまでは永かった。
しかも、無から長い年月をかけて人体が形成されたのだ。我々の存在は、その無へ帰れというのか。いや、魂の世界への飛躍でなければならない。

自分が死後の世界で飛躍できるように生きているのだ。人のためではない。持続可能な空間は、人間の最後の大きな課題-死後の世界を解く-ために必要な解放と開放の場だ。

生きる目的を見いだせない人は不幸だ。死後の世界への連続線をイメージできない人はもっと不幸だ。生きる目的が、それにつながっているのだから。 

草も木も魚も鳥も獣も、皆生きねばならぬ。そして次の空間への飛躍を考えねばならない。彼らにもその時(46億年後)が来たときに可能か、なんて思うのは傲慢だ。
この様な設問は、人間の傲慢さによるのか。人間に与えられた運命か。
この時、彼らも一緒にと云う慈愛は持ち合わせうるのか。

悪をなした行為は許されない。すなわち懺悔では許されないということだ。
許されるためには、それにもました善を行わねばならない。その行為への慈愛はあり得る。

老いるとは、痛さを忘れ、性欲も衰え、食欲も減り、肉体への決別を徐々にして行く。そして、それらを経て培われてきた豊かな精神のみが残り、新しい次元へと旅立つ。
この過程を連続的なものにしたい。

どんな精神論を唱えようとも、持続可能の中で自然と接して深々と敬意を表し、理解しようとして、その中で培われた精神論でないと意味がない。

嘆くことなかれ。嘆きによって心が占拠されてしまうと、その間、その場に良いことが起こっていても、それを見逃し、正しく感じなくなってしまう。寒さのもとでも、暑さのもとでも、美しいもの、良いことを見逃してはならない。
人に対して、嘆きだけではだめだ、人のふり見て我がふり直せ。

宗教においては、その偉大なる創始者を、信じる対象として位置づけ、個人の創造性の展開をむしろ阻害してきた。そんな例を、これからは作ってはならない。 個人の創造性が全体となって、魂の宇宙への開放があると信じるからだ。そして、偉大な彼等は厳格に質素に生きたことを思い起こさねばならない。現在、多く 見受けられるきらびやかな宗教活動とは、根底から相反するように。

宗教者は何をポジティブに提供しているのか。精神論を訴えて、何が建設的に得られると言うのか。個人をどのようにして救えると言うのか。彼等自身が持続可能を率先して示すべきだ。釈迦もキリストも質素に生きた人達だ。

持続可能を目指し完結することが、ゴールでもない。また、完結できないかも知れない。すなわち、完結したものがあると、それへの努力が止まることにもなり、その面での創造性は停止する。

工学はあくまでも物質的だ。文化的創造性、哲学的法則をそれによって見出す事はできない。単なる物質的な持続可能と、生きる目的を探求しそれを楽しむ、あるいは、楽しむ事によって生きる目的を探る立場とは異なっている。

発展的に物事を考えて行くと、結論が何時も先送りになって、すなわち、つかみきれず、いらいらの焦燥感に駆られる。しかし、それが止まると進歩はない。
発展的に、進歩的に、創造的に活動しながら、心安らかに過ごすためには、どのようにしたらよいのだろうか。
朝夕、神への感謝の時間を持つべきだろう。もっと、人生の意味を深く考えねばならない。今の自分に必要だ。

植物は、宇宙を感じられるという。そして美しい。
さて、人間は?そこから学ばねばならぬ。より深く自然を知ることは感激だ。

鳥や獣は持続可能だ。霊長類で最も進歩しているといわれてきた人間のみに、それが出来ないとは何たる事か。最も進歩しているということが間違いで、ただ、傲慢なだけだ。

汚い方向(金、名誉、等の物質欲)に心が動いていると、澄んだ気持ちで自然と語り合えない、人生を哲学できない。次の世界への道は遠くなるばかりだ。

貧しい国では、持続可能に生きなければならない。
その様な状況で、悟りをひらこうとする人々は、多くいるはずだが、社会的に
表面には出てこないだけだ。このプロジェクトで、どのような結果が見出せるかは分からないが、彼等よりも未熟であるかも知れないことをよく念頭に置き、傲慢になってはいけない。
それらの文化は、そこの自然との対話の中で生まれている。英語によって広げて行った文化は、論理によっている。さらに自然と遊離している。それが世界をおおっているのが、また不思議だ。神からの人間を試す悪魔への誘惑のこころみか。

汚れた水や土から育つ植物は、それらに負けて死なないで、強さを持っているとともに、それらをろ過してきれいな水にしてくれている。それを利用するのは傲慢か。そうだ。汚さないようにすべきだ。

当然のことながら、物事を批判し、批評する時は、時間軸上短期的、長期的立場からすべきだろう。また、社会としての進歩と個人のそれとを区別して議論するべきだろう。

鳥が空を飛べる力学、科学は解明できたか。それでも人間は賢明と言うか。この力学、生物達は偉大だ。

宇宙の科学が進んでも、DNAの研究が進んでも、議論は、物質的仕組みの探求に過ぎない。精神的な発展は何処にあるのだろうか。それこそ、人間が見つめ、求めて行くべきことだろう。科学が少しの手助けをしてくれるかもしれないが、いわば、従属的部分と言えよう。

Genuineさ-精神的な意味-や単純さ-物質的な意味-には力がある。
複雑さは一見何かパワーを持つ様でも、一つの部分が壊れると、全てが壊れるという欠点がある。そのほつれを償うために、また複雑な理屈をこねる。
それが、がんじがらめになり、どん詰まりまで追い込まれ、自由を失い創造性を失う。
日本の社会は、その典型であろう。これは、どの古い歴史をもつ社会にもあることだが。

永く生きて、永く考える努力は、永遠の命を求めるべき人間にとって必要であり大切なことだ。

NZは、人間を含む動物の数で日本と同等だ。しかし、多数を占める動物達は、人間の持つ悪い考えは持たない。この国は動物によって成り立っている。人間によってではない。そして、この国で悪い考えを持つ奴は、最も悪い人間だ。

私は過渡的な場を求めているのだろうか-人間は昔へ返らねばならないのか。違うと思う。しっかりと長く生きる場を、持続可能的に生きて、そこからの進歩を目指したいからだ。

持続可能な空間で一生懸命働くと、よい、楽しい、美味しい、結果が得られる-と考えることは、正しいことであり、労働意欲を支えるポジティブな思考だ。

科学の進歩に何を求めようとするのか。利便さと欲望と怠惰、高々そんなものだ。それは全く精神的な進歩ではない。科学が精神的な進歩を求めようとするならば、それらは全て否定されねばならない。何故なら有機物をバクテリヤが食い尽くす行為と同一だからだ。
45億年の間に、木や鳥は変わり得るか。人間は変わり得る可能性を持っているという点で、最も優れているといいたい。しかし、その永い年月の間に木も鳥も変化するかもしれない。

古いことを尊ぶ気持ちが基本にある。祖父がいとおしんだ抹茶茶碗の例。新しいもののみを求めるのは消費文化のなせる結果。

みんながさらに環境問題(持続可能の追求)からそっぽをむき出した。アメリカの京都プロトコール 批准反対をもとに、イスラムへの侵入が世界の話題をさらい、大きなパワーに対する厭世観が作用しているように思う。
グローバライゼーションがどこに行き着くのか、明らかな先は見えてきた。すなわち、退廃と破壊だ。精神的発展が何もない行為を繰り返し、それへの道をたどっている。

自分がやらないと人がやるから、悪いと分かっていてもやらざるを得ない。

例:熱帯雨林の伐採、毒を基にした商品の製造。

科学においても人がやらない前にやって有名になろうとする。
これを打破する精神的進歩が必要だ。

Negative Attitudeだけれど、やりたい社会調査。

  金持ちあるいは高額所得者へ:健康状態、幸福感
  有害食品を作っている会社の社長は、それを食べているか

近代科学が生んだ副作用を補う科学、そんないたちごっこがGEによって起こる。そこに人間のエネルギーを投入せねばならなくなるのは明白だ。そんなネガティブな生き方をしてはならない。

個人主義

個人主義と一言で云ってしまうのは避けたいが、各人が持続可能な生活を確立し、そこで解放された個人を得て、創造的な生活をするという概念を、包括的にこのように言い表しておく。

皆がやっているからではだめ。流されてはいけない。同じ犯罪者だ。どこかで歯止めが必要。
そして、可能な限り、個人はそれぞれが違う必要がある。

貧困を救う-貴い考えだ。英国でのTown planning(田園都市計画)は、個人を救うために行われたという。社会主義的にはMassで救う。後者は発展性がないと思う。特に日本では。必ず悪い奴がでてくる。現実が何よりの証拠だ。

その場で、丁丁発止の議論が出来なくても良い。後からのより深い思考で、よいものを作れば良い。人前で素早く反応し、一定の意見を誘導し、その故に、リーダーと目されるタイプもあるが、ゆっくり深く考えればよい。

日本の美徳の一つ、和は一様化である。自分の足で立つ(Stand on your own feet!)。はじめて個人主義を主張できる。このプロジェクトを、個人主義と、いわゆる根回しの民主主義、との葛藤とも位置づけている。

誰かが何かをやってくれるという期待が持てたときもあった。しかし、現在は、人のためには、誰も何もしてくれないと思った方がよい。個人がしっかりと自分 の場を作って行かねばならない。自分で自分を守る手法を確立し、確信と自信を持って、その創造性の中での毎日を送るべきであろう。

持続可能な生活は、年寄りにもできると強調したいし、私自身の励みにもしたい。

大量生産と、分業という仕組みの社会の中で、結果的に、気づかずに、人を利用し、利用されて、生きる空間になってしまった。食べ物は人に作ってもらい、職場まで運んでもらい、そして、限られた一つの仕事をして、日々を終わる。

知らぬ内に(なんの告知や情報もないままに)、遺伝子組み替えで作られた食物が、市場に供給されている。アメリカ産のこの様な大豆は、すでに日本の豆腐に はいっているかも知れない。メディアもこれを追っかけきれない。好むと好まざるに関わらず、すでに実験台になっているわけだ。(少なくとも、その様な製品 には、ラベルをはって知らせよ、という運動もあるが)。持続可能な生活様式を緊急に確立して、その危険からのがれねばならない。

人間は、悲観的な論理をたどりたくないようだ。原爆があれば、戦争が起こる-より単純で明快な論法だ。それに対して、人は、そのような終末的な悪いことはしないはずだ、という希望的思考の論理を、形成しがちだ。

社会集団が出来ると、必ず悪い奴が牛耳ろうとする、と考えるのが妥当であり現実だ。環境問題も誰かがやってくれるだろうと思われがちだが、それはあり得ない。

環境問題は、唯一、汚してきた過程を知っている人間だけが、止めることが出来る。

今はびこる日本の民主主義は、51%を取る戦術にゆだね、そこに根回しなどと卑劣な手法を許し、人間の英知の進歩を阻害している。
正しい思考の発展は何処にあるのか。21世紀へ向けての大きな課題とすべきである。
しかし、大きな自然の懐にいれば、新しい発展は、必ず、大いにあり得る。

環境問題においては、「まぁええやないか、皆やっているやないか。」と間違いを許してはならない。チッソも四日市の工場も、まだ存在している。
間違いは、厳しく罰せられねばならない。

規律(和+日本的民主主義)、の中へ押し込めようとする社会だから、個が自由に振る舞うことがどの様なことなのか、何を自分ですべきなのかが発想できない。この過程は、受験勉強を含む教育課程にも見られ、大学に入ってからの学生にも強くみられる。
そして、社会人にも・・・・・。

物を造らなければならなかった時代、無理を押し通さねばならなかった。それを隠ぺいする社会習慣が、身についてしまったのではないか。生産体制も精神的な背景も、結果、犯罪的になっている。大きなつけになってしまった。

人間は、個人は、もっと強いものだ。昔と異なるのは、ほとんどの人が高い教育を見につけ、全てが高い認識のレベルにある。個人が、英雄あるいは特異的になる時代ではない。ましてや、人を利用する時代ではない。その殻を破らねば。

もやしはもやし。日陰に育つと強くなれない。ハンバーガー、コンピューターゲーム、空調完備の季節感のない室内競技場。免疫力を養い培う場が与えられない と、異常で弱々しい人間になって行くであろう。この様な人間が、最近は多くなっており、こういう人間の死への過程を、見きわめねばならぬ。

一時的な現象に負けてはならない。創造的な実力を持つものが、ことを進められるのだから。ただし、その創造性を狡猾な人間に利用されないように注意せねば ならない。助けてくれる環境がなくなっても、あるいは、悪くなっても、これまで創ってきた事実があり、さらにその連続線上にあることを、忘れてはならな い。
低いレベルの過去の議論に拘束されず、また根源的なレベルにとどまるのみでなく、高いレベルでの議論をもっとすべきだ。

世のため人のためというよりは、自分の生き方の検証である。
一方で、人類の幸せを目指した夢がある。

持続可能型の生活で、個人が解放されると、既存の権力機構は崩壊せざるを得ない。
それらに属さなくてもよいからだ。

ことは流れて行く。何処かで‘竿を差さなければ’、流れはいつでも低いところへ向かう。すなわち、マクドナルドとコンピューターゲームが流れを作る。
そして、原点が何時も忘れられている。何故、コンピューターゲームであり、マクドナルドなのか。
振り返って再度考える必要がある。何故なら、明らかに、それは堕落の方向だからだ。

民主主義は、多数の人間の間の最大公約数を作るために、根回しをしながら泳ぎ回る手法を与えたにすぎない。そして、考える努力を止める場を作ってしまった。

自由に考える空間を持ち得たことは、最大の喜びだ。社会の拘束、すでにその枠内で要領だけで生きてきた人間には、それが背中に背負った十字架になる。そんな生き方は私には出来ない。

全てが解明されていない-不可能なことだが-生物体の人間が、そう簡単に人間の作った場-工学的、医学的、農学的な-に、順応できるわけがない。植物でも そうだ。酸性雨に強い米なんて、急に作られはしない。それに順応できないからといって、病気と位置づけ、さらに人工的なものを作る。
この様に本質を忘れた、取り返しのつかない場になっていっている流れに、人間は目を向けられなくなっている。
GE、その失敗のつくろいは、あたかも、さらに新しい科学であるような錯覚をして、それを進歩と思ってしまう。物差しは、何時でも、自然とともにある学問でなければならない。

日本は本当の情報を全て隠しているのではないか。
工場の廃液、水道水の含有物、ダイオキシン濃度、私大の哲学のなさ・・・・・
混乱を無くすためといっているが、いざ混乱が起きると、もっと大きなダメージが与えられる。

60歳で28年勤めた大学を辞職するときに、教え子から「ただの一人のオッサンになるんですよ。」と言われた。そうだ。そこが新しい、正しい出発点だからだ。それを60歳で行った。
そして、私はやるべきことを見出したのだ。

人生は流されてはだめだ。
大きな流れに近づこうとすると、自分を見失い、原点の議論が出来ない。
自分の中からわき上がる夢を、ロマンを追い求めねばならない。でないと、死後の世界での展開はないだろう。大きな流れに流されている自分を、しっかり、見つめなおそうではないか。

事を隠すと、突然とんでもない混乱が起こる(例の一つ:水問題は何かを隠しているはずだ)。
全てを明らかにする-欧米社会(世界各地でおかしな事が吹き出しており、少し変わってきたが)
全てを隠す-日本の社会。
軽薄な心情論でのかばい合い、悪いことを隠し通そうとする。
間違った計画で間違った結果が出たときは、特にそうだ。そんな中で善悪の判断が間違って行く。結果、現状維持から脱却できなく、このまま突き進むことになる。自然と対話しろ。

各人の個性が抑圧されている。それを解き放たねばならない。夢を、歓喜を求めよう。

分業化が作ってきた大量生産の構造の崩壊が始まった。

持続可能な場では、自然が大きな教えを与えてくれる。例えば、働かないと食えない。公平ですばらしい教育論ではないか。

個人の殻を打ち破らないと、大きな飛躍はない。自然とのふれあいの中から、高い次元の哲学を見いださねばならない。観念だけで俗世間は脱出できない。自然の仕組みの中にこそ、その場があるのだ。

多くの隠れた人達、自分の築きあげた思想を表現できないで、一生を終えた人は多く居る筈だ。そのsoulを呼び集める必要がある。お盆にはそんな意味もあるのか。

残る46億年を考える時、何をあくせくしなければならないのか。他の人々との連携が得られなくても、自然との付き合いの中で得られた考え方を述べるだけで、人生を締めくくってもよい。

貪欲に求めて行く物質主義、すなわち経済が、大きなエネルギー使用を、社会の中で強く根付かせ、個人生活に大きな負担をかけている。
個人では戦いきれない状態(道路際の交通騒音、広がって行く悪政、他人任せの環境問題)が各所に噴出している。それがストレス(あるいは諦め)となり、人間生活に大きなひずみを与えて、そして、人々を諦観へと導く。

違った人とのあいだに、新しい接点を見出そう。異なる多くの人との交流には意味がある。異なったエネルギーの吸収であり、変化はエネルギーをもたらす。
そして、各人は出来るだけ異なるべきだ。

(第2,3次産業など)殆ど全体の社会的作業が建設的でなく、バブル経済の本質にあった借金の社会だ。幾らそこで経済を立ち直そうとしても、資源が枯渇に 向かい、地球環境が汚染されて行くとき、ごく限られた数の人間のみが、生き残る手法を見出さざるを得ない時代になる。全ての人に幸せをということはありえ ない。目的意識が喪失しており、かつてのように経済発展という形では、何ら方向性が見いだせないだろう。

グループに属して生きると楽だ。しかし、個人は抹殺される。

単純さの積み重ねこそ、本質論の主流だろう。
複雑な思考、それは本質的か。複雑化した既存社会のせいか。

偶然や幸運に生きる(求める)のではなく、質素に地道にゆっくりと生きることによって、連続的な創造が得られる。

人の考えを読んで感銘するときのimpactと、自分の考えを突きつめて、自分で新しい結論を得て感慨を得るのとは本質的に異なる(勿論両者があってより成長するのだが)。
後者がどんどん進歩しているとき、前者は必要ではない。
前者には落とし穴があり得る。それに狂信的になって頼ってしまうことになろう。宗教と同じ。何時も忘れてならないのは、宗教者も偉大な哲学者も、我々と同じ人間だったことだ。
我々は、自然から直接学ばねばならないのだ。でなければ個人は自由になれない。すなわち、個人の創造性の結集が、人類全体の発展につながる筋道への到達となり得ないからである。

全てを自分でする事が、どういうことかを、一つ一つ経験し確認する。一人の生活が確保できてこそ、二人の生活に意味がある。

太陽の作った雲、それと太陽自身との戯れ。この時、全ては太陽のなせるものと言えるが、自然によって大きな乱れを持つ雲という人類が、作られていることでもある。大きな神を感じながら、自分もあるということ。
乱れとして捕まえにくい雲のように、人間一人一人の存在があって、雲のように動いているはずだが、それが大きなマスとして流されているとすれば、そこに美しさはない。

音楽の流行が、全世界的に起こる現象は面白い。世界の動きにおいても、同様な情報と知識が伝搬吸収されているから、新しい動きに飛びつく素地が出来ている と云えよう。Mass に流されることの恐ろしさが秘められている、と思う。アメリカが先導しているグローバライゼーションへの陰謀は、まさにそれだ。
金の方向に動くな。創造性の方向に動け。

民族や文化の相違(Difference)も、時間的変化(Change)も、精神的なエネルギーを与えてくれる。前者の良い例は、民族性の異なる人々が 集まって、率直に語り合うとき、それは単に料理についてであろうが、日常生活の詳細であろうが、異なることによって豊かな意見交換が出来、自分をポジティ ブに磨き上げることが出来る。後者の例は、季節の変化のもたらしてくれるものが、一例だろう。

人物を評価する必要もないし、される必要もない。個人は死後、神によって判断されるのであって、人によってではない。

政治は、個人の安全な場を守るためにある。
今や、世界中の首長が経済、経済と、特に選挙のたびごとに叫んでいる。物質文明の夢を、まだ追い求めている。破壊と退廃が待っているのみだ。
政治を権力のもと、全体主義へと誘導する道具にしてはならない。

現在を否定するための権力の構築ではなく、すなわち革命ではなく、新しい方向の模索と創造を行おうとしているのだ。

人生は、自分のために、自分の進歩のために生きるのだ。その上で、他人を尊重し、お互いを切磋琢磨するために社会があるのだ。社会に個人を縛り付けてはならない。

他人が主導権を握るのがいやなら、自分も握るな。
Eco-villageを作る時は、一般的な名前をつけよう。桃源郷計画(Utopia Village Scheme)はどうか。

大量生産による人間の貪欲さが、これまでの有機農法や自然との接点を取り去ってきた。

GEの導入は、集団自殺行為になるかもしれない。そんな危険を冒す必要が何処にあるのか。仮にうまくいったからと言って精神的に、哲学的に何が得られると言うのか。それによる進歩をどう説明するのか。やはり、破壊と退廃の方向が見えてくる。

人間が完全ならば生きる必要はない。不完全だから生きているのだ。

有機農法を扱うある雑誌に、尾関式浄化槽の記事を投稿したが、その雑誌は時のGEに対する社会運動の記事、すなわち、政争ごとを優先させて、それ以降連絡 が途絶えた。この様に持続可能な生活にとって大切な浄化槽の導入が遅れを取ってしまう。政治にかまけると、必要なものを見失いがちだというよい例だ。 Journalistもその方向に向けさせている。個人が大衆へ向けて声を発する時、注意せねばならないことだ。個人の創造性から出発しないと環境問題は 解決しない。

土地の私有権は、一定以上(例えば、暫定的であるが、一家族2,500m2 )は認めるわけには行かない。平等化の上に立ち、自然、神からの贈り物と考えれば成立する議論だろう。
土地の性質によっても、個人所有を主張できる基本面積は変わってくるが。

一人の人間に一体何が出来るというのでしょう。石油エネルギーを食いつぶしてゆくだけなのでしょうか。
野菜や果物、さらには樹木の育成は、一代限りのものではない。各自の経験を上手に次から次へと伝えねばならない。この部分が大変欠けている。
また、土地もそうなのだ。NZの粘土質の土地を良質な畑にするには、何年もかかる。最近つくづく分かってきたことだが。

地球上での自分自身の魂の過去の生き様と、その後の進展ぶりを次の世界から眺める。そこに個人主義の本質がある。

コミュニティを作ろうとするのは、個人主義の上に立って、さらに有意義な個人の自由を得ようとするためだ。
労働奉仕はさらにその可能性を磨くことにもなる。

エネルギー収集について、一つの項目に執着していると、持続可能な量を得るのは不可能だろう。そのことで落胆をもたらしてきた。ひとつのエネルギーの取得 法に執着している議論は、結局、力を得るためのものである。それに各自が期待すると、それが実現したとしてもまた個人の自由は拘束されてしまう。
しかし、いかに太陽が種々の形で我々にエネルギーを与えてくれているか。ここにもそこにも存在する。それを見出したとき、これは大きな歓喜だ。

我々は他人に頼りすぎている。したがって、お互いを利用しあう醜い空間を作ってしまうことになる。

多くが、自分の体を丁寧に観察し、問いかけ、得た知識を参考にして考え、改善する方法を見出してゆく時間を失っている。

この年になってやっと正常な食事することの必要性を感じ出した。畑、田んぼが大きな助けだ。その時、考えることは、過去の食事法が子供の頃からしっかりと教えられる必要があるということだ。大きな教育の根幹だろう。

食事のバランスを、自分でコントロールできる。作物の選択も、量やバランスの選択も自由だ。
食べ物のことを考えて見ましょう。GE反対、人口肥料での栽培はだめ、といって、有機栽培の食べ物を求める。これが割高でも受け入れられ、買えるとして も、その選択肢は限られている(=人の意思で限られている)。これは自由ですか。社会のがんじがらめのシステムの中にはめ込まれているのです。仕方がない といって終わってしまうのです。大きな組織を作らなくてもよい(作ると同じことになる)、自分から始めればよいのです。

年やなぁと思うとき、それは唯一自分に課せられた課題で、それを上手に解き、乗り越えることに年をとる意味がある。

ローヒエラルキー(緩やかな社会構成)

ヒエラルキーを構成する利点は、統一された思想や哲学のもと、各個が中から燃えるようなエネルギーを持って支え合うときのみ、意味をなす。これまでのあら ゆる実験は、その崇高であるべき思想の、あるいは哲学の確立に失敗し、その結果は、全く乏しく、貧しかった。それを表面的に捉えて枠を作って行くことに、 あたかも何かが作れると錯覚をして。そして、その枠の中でうまく泳いで行くことを目指す人間の、何と多いことか。
個人の自由を確立する生活方式に一度は帰らねばならない。そして、精神的に十分鍛え上げて、弱き者を助け、幸せな社会集団を作って行く中に、コミュニティは創られるべきだ。

ヒエラルキーを作ると、勝者(さらに他人を利用しようとするグループ)と敗者(その組織の中に安住の地を得ようとするネガティブ思考の者)に分けられる。 前者には、人を利用する能力に長けておればよい。すなわち、夢、ロマン、哲学がなくてもよい。大学にあってもしかり-最近の子供達は上からの指示を待って いる。親の躾にしたがわそうとする日常性に大きく影響されてもいる。それらはたやすく敗者のグループに入り易い。あらゆる組織、国の単位でこれが現れる と、戦争にもなり得る。今、救いは、各国々が一種のアイデンティテイ を持っていることだ。日本がその文化を捨てて米国に追従すると、このヒエラルキーを構成することになる。英語は論理的言語だ。英語圏の拡大してきた様子 と、それらが物質文明を先導してきた歴史は、Globalizationへと駒を進め、ヒエラルキーを構成しつつある。
がんじがらめの社会。それは間違いだ。

明かに、種々の病気の原因(排気ガスの酸化物による皮膚疾患-アトピー等、微粒子による喘息等)になっている都市の気候から、何故、原因が分かっているのに、人間は脱出できないのか。またしないのか。してはいけないのか。
Hawkers(手押し車でやってくる商人)は、都市という集団生活の中へ押し込まれようとする杓子定規の都市計画に対する反抗であろう。手法の方向性が 間違っているのだ。自然の中に持続可能という人間の場を構築してゆかねばならぬ。枠を先に作ってはならないというよい例だ。

Top downな社会構成の仕方は、殻が出来ても中身が出来ない。具体的に創り上げる側からの構成をして行かねばならぬ。やり方が後者であっても、ある時期に下を見て支配するようになるのは、本人が限界を感じ、精神活動において、年を取ったことを意味する。

かつての戦争では、東大も京大も止めることに何もできなかった-集団で悪を行った。地球環境についても期待は出来ない。環境ホルモンが云われても“仕方がない”ということになろう。
戦争はしてはならないと、個人はそれぞれ思っている。集団になると止むを得ず、あるいは、仕方無く、ということになる。その中で個人であるためには、自己保持の生き方しかない。

自然とのふれあいの中から、高い次元の哲学を見いださねばならない。観念だけで俗世間は脱出できない。自然の仕組みの中にこそ、その場があると思う。

終戦直後の荒廃が、物質文明へのあこがれを助長し、その行為を守るための社会風習がバブル経済を生んだ。「汚いものにふた」の議論が多くの社会組織で定着した。
和の精神と称する民族古来の風習と、戦後民主主義が多数決の論理を堅固なものにし、実質的な議論をしないで、「根回し」で、ことを決する風習となった。

一単位のボス的結論→より上位で尊重される→大きな組織の代表意見となる。そして、社会はそれを重みのある結論と見る。系として大きな間違いを作っている。どうすべきか。大きな問題だ。個人主義が一つの答えであるのは明白だ。
日本でどう芽生えさせればよいか。

科学が、学問が、自然が、人間の多数決で決まるわけがない。

人間を機械的要素と見て、人を操る事のみを考える。個性を持った個人を、その枠、殻にはめるからには、崇高な哲学がなければならない。でなければ、人を道具の一つと見る最低のヒエラルキーになる。

日本語の孤立性、和で動く根強い国民性、物質文明の導入、そして自爆的破綻。分業が進む、大量生産を目指す、その間の淘汰が激しくなる。より多くの利益追 求、非倫理的思想の蔓延、最も問題になるのは、そこでの人間には哲学がないことだ。人間的な深みもなく、環境問題の元凶だ。"仕方がない"で議論を進めて 行く。

化石エネルギーの消滅でglobalizationに基づく世界は消滅しよう。

自分達が開発した兵器(含む生物兵器)がテロリズムに使われるべく広まっている。押さえようとした人達がそれを使って抵抗しようとするのは皮肉な事だ。これをなくすには、武器の製造を禁止することだ。

村を構成するのは、個人生活の確立された生活を、より充実し、かつ利便的にするためだ。構成のための構成ではない。

権力を追求しない個人の間での戦争はあり得ない。権力を追求しない国同志の戦争も起こり得ない。

国の名を借りて、企業利益ひいては個人利益の追求だ。‘組織を作ると必ず悪いやつが出てくる’最悪の例だ。

既存の社会機構のなかで我々は働きすぎた。無駄な活動をしすぎる。働く量が減れば石油の消費量も減じる。現状への妥協的発言になるが、石油は、文化交流などに大切に使われねばならない。

製造者側が消費を促進させている(コマーシャリズム)のは、間違いだ。持続可能を追求する人達(需要者)からメーカーへ働きかけるように、流れを変える必要がある。消費者側から持続可能的に作り上げる生産者体勢、絶えず議論のやり取りをして作り上げる。

若者の異常な現状。ジャガイモが果物と思ったと言うのは、むしろ単純だ。しかし、飛んでいる鳥が間違っている、星の世界を見て無限を想像する事が恐怖だ、と言う事になると、もっと根が深い問題であろう。

次の世界—現世から死に至るまで

老人になって初めて、すなわち煩悩を自然に断ち、悟りへ、ということかも知れない。人生を全うするとは、このことかも知れない。

 性欲が減少し、
 感覚が鈍くなり、
 味覚に興味がなくなり、
 反射神経が鈍くなり、
 美しさへの感激が鈍り、
 世の中の変化について行けず、

と、色々とその側面がでてきそうだ。しかし、次の世界をしっかりと発展的に考えることには、研ぎ澄まされた洞察力を持つべきだ。

死後の安らぎを求めて、誰もがあらゆる欲望を捨て去り、悟りの世界を求める生活へと向わせる事が出来る。

自己の認識は物理的に説明できない。したがって、それを構築できない。すなわち、肉体とは離れた“たましい ”の場があり、肉体が滅びても存在し得る。そして、それは次の世界へも連続的であろう。また、たましいそのものが次の世界かも。

両者でいがみ合う宗教は、両者とも人間のたましいを議論する上で、まだ完成されていないということだ。

死後の世界へは不連続ではない。宗教では主として死後の世界のみを考える。
現世での正しい生き方を教えてはいない。
現世で正しい生き方をしないと、死後の世界での解放はない。
山籠もりなどして耐えることは教えても、芸術、文化、人間の創造性の追求の必要性を強調はしない。山籠もりは自然共性的生き方を示しているが、宗教者のみに課している。

死への痛みや苦しみは、進化への困難さを示すものか。あのあまりにも大きな悲しみは、一つの証であろう。
死を通じてのたましいの世界との接点。死は大切で貴重なものである。
そこに、次の平面への窓があるといえよう。

人生を、与えられた短い期間と思えないように設定すべきだ。すなわち、死後においてもこの世での自分の生き様は、どんな形にしろ、他人に参照されるという ことを思わねばならない。このように考えて、初めて宇宙へと足が踏み込めるのだ。次世代へ積極的に伝承することも、その手がかりを残しておくためだ。

生まれてくるときは貧富の差もなく、それぞれがよく似ているが、死ぬとき、あるいは、死に方はそれよりももっと複雑に異なる。現世での生き方が、それぞれ の個人にとって、それなりに意味のある過程だ、という証拠だと言えないだろうか。次の世界への入口への違いを作っていると云えないだろうか。
また、神は個々人がどの様に死んで行くのかは決して教えてくれない。死後の世界にも個、或いは個人があることを意味しているのだろう。このことも厳粛に受け止めねばならない。

死は、人間の大いなる進化(Evolution)と言えないだろうか。次の世界では、太陽エネルギーという第三者から与えられた膨大なエネルギー(持続可 能に生きることは、その意味で容易いことだ)に依存して、汲々と生きていくという様子はなさそうだ。次の世界への発展的移行をすると言えよう。それだけ に、そこでの進化の度合いを深めるには、この地球での生き様を、しっかりと意味のある生活にしなければならない。その二つの空間は不連続では無かろう。

そして、土臭い生き方(Earthly life)は、物質的であり、その手段を用いていくらでも高次な生き方が出来る。人生は、その様な手段の存在する中で、最高に生きるべく収束して行かねばならない。次の世界での発展的な出発を確定するために。
物理的な場で生きている時のみ出来る事、たましいの世界でのみ出来る事、それぞれ異なろう。物質的だからこそ修正訂正が出来る。だから現世に最も正しく生きる事が大切だ。
最大限の精神的進化を、個人、そして、それと社会との協同作業で、培って行かねばならない。

地球上で最大の努力を追い求められれば、より永く人々の心の中に残り、次の世界からその様子を見下ろせよう。それは、地球上の人間にとっての次の世界を、推測する手がかりにもなるのではなかろうか。

この課題を、今後の45億年までに解かねばならないが、その二つの空間を結ぶものは何だろう。こちらからのアクセスはかなり難しい。それをより容易にする には、個々人がその創造性を通じて、その考えを残しておき、次の空間から、その成り行きを観察し続けるのがいいのではないか。それによって、死後の空間か ら現世へのアクセスができ、地球上の人類にとっても、次の世界が考えやすくなるのではなかろうか。すなわち、それは地球上の人々にこの最後の問題を解く 鍵、あるいは、助けになろう。
そのためにも各人の最大の努力の結果である生き様を、しっかりと残しておくという作業が必要である。一方で、地球から見出してゆく努力をする。これこそが人間社会での協同作業(Cooperation)だ。

何故、子孫に素晴らしい地球を残さねばならないのか。そこで彼らが生きる意味を考え、死後の世界を解こうとする空間を与え残すためだ。それだけではない。 そこに我々個々人の残した思想を伝達し、議論を発展させてゆかねばならない。そして、より神の空間への接近を果たし、死後の世界への発展性へと悟るため だ。

人生が無であるという考えは間違いだ。                 死後の世界には何もなくなるというのも同様だ。
この地球に住んでいるという現実は、太陽のもとで、その恵みを受けて生きているという大きな前提がある。すなわち、この地球の命は、太陽の命より長くはない。
地球上で生活する限り、それは乗り越えられない。一人の人生を全うすることは、その有限期間でなされるべき太陽系での、ごく小さいが、一部なのだ。すなわ ち太陽と地球が無限に続くとすれば、無(0)ということも出来ようが、有限な時間軸を分母に持ってくれば0にはならないという事だ。人間がその有限の期間 (45億年)に解かねばならないということだ。
この意味では、有限から無限性を推定するあるいは模索するといえるかもしれない。

人間の求めている歓喜は、殆ど肉体と共にある。これが世俗的な生活の大切な部分であろう。幸せだと言う気持、歓喜のある様、熟考の上進展性のある議論
から得た満足な気持、次へ向ってのポジティブな気持、このような環境が観念の世界への橋渡しとなろう。地球的環境が作ってくれる、その様な空間を実現さ せ、充実させて行く中に、次の世界への流れが見出せるのであろう。それぞれの場から得られる歓喜を、それ故に、肉体から離脱して、あるいは肉体を超えて追 求する時、次の世界への発展的移動の道に探りを入れる事ができよう。

誰にでも死が与えられるという事は、誰にでも進化が与えられるという事になる。
そんなにも進化は、簡単に個人の努力なしに、得られるものか。
そこに神の慈愛があるのか。
いや、何処に行けるかは、地球上での努力が反映された所になるに違いない。

物質で出来た体から離れて、分子の形で残るとすればReincarnationはあり得よう。物質の形ではなく、次の世界を、例えば、広がる空間として感じられるようになった時、次の世界への連続性の概念(悟りというかもしれない)が引き出せるのかもしれない。

在世での生き方と、死ぬ瞬間の体重の変化との相関を実験的に比べてみたい。
精神(Spirit)が、次の空間へと発展的に飛躍するなら、質量もなく軽いはず。輪廻転生で地球に留まるならば、重いはず。現世での生き方の反映が、その差に現れることを実証したい。
人間を含めた生き物の体は、大気圏に存在し続け、また偶然の組み合わせでその魂の戻る組み合わせも有り得る。DNAは数千年地中に存在し続け得るという(マンモスの例)。
物理的に死ぬのだと思えば、DNAが何千年も地中にあるとすれば、Reincarnationは起こり得よう。従って、その種の肉体を介しての歓喜によって肉体的性を乗り越えて、悟りの世界へと精神的な進化進歩を遂げて行かねばならない。
みんなが満たされて死を迎えないと、悪い魂で地球は満ち溢れてしまう。

死後は、物質的には地球を出て行けない。肉体が地球の上で再度構成される可能性はある。そこに、一度は遊離した精神が帰って行く可能性はある(輪廻転生)。
解脱とは宇宙への展開であろう。

物理的に一生を生きることで、自然に何も負荷をかけずに、何も残さないように生きることが崇高な生き方だ。また、それがその他の生き物と共存できる方法 だ。そこではそれらからも学べ、人間としての思考の世界が創れる。そのような過程での思考のみが人間のなすべきことだ。そしてそれを残すことが。
尾関タンクの残留物を地球に返すことで、生きた過程のひとつを消去できる。系を閉じることが出来る。

死は必要なのだ。個は払拭できないからだ。そして、次の世代あるいは個にその哲学を引き継ぎ、人類としての発展を遂げるのだ。

死。肉体は滅びても、この世でどの様な地位にあっても、それと別れた精神は、連続的に次の空間へと移って行く。それが何処へどの様に行くのか、現世での生き方がどの様に反映されるのか、大いに興味を持ち次の世界へ行くことを楽しみと感じるようにしたい。

死の世界への恐怖、そして期待-永遠に望まれるものとは何か、
永遠に求めて行くべきものは何か。議論は延々と続く。

神の存在

人間の同時代的な発想は、人種を越えているようだ。
例:七世紀ごろのSkansen(Stockholm)の校倉作りと正倉院のそれ、寺井さんと同時代の学者の積分方程式、よく似た(私に映った範囲で)Peterと乾さんの絵画など。
これらの地域性をはるかに越えた空間での共通性は、天から与えられた進歩に対する指示かも知れない。

宇宙からの大きな力での、個々人にいたるまでの制御があるのだろう。
大宇宙からの神の制御は、自然現象のみではない。各人の心理、思考、喜怒哀楽の感情にまでも及んでいると思うことがしばしばである。何故、この人と、あるいはこの人達と、現在この出会いがあるのだろうか、とよく思う。

波動方程式は非線形要素を入れては解けない。非線形性は、その故に解が1対1で確定しない。しかし、非線形を含む場は、一定の安定性を持って1対1に起こっている。神のなせることといえないだろうか。

死後の世界、たましいの世界

人間が生きる意味は、先ず太陽エネルギーが消滅するまで生存し得る努力をし、 美しい自然の中で完結すること(それまでに解決すればよいのだ)。そして、 その間、太陽エネルギー消滅後の太陽系を離れ、宇宙空間へ解き放されることを思考することにある。私はこれを広義の持続可能と定義している。
空想が空間を駆け巡るように、たましいも少なくともそれは出来るだろう。
空想もたましいの世界を想像する一つの接点となろう。
ならば、たましいはどのように作られたか。物質的でない空間があるとすれば、それが(神によって)無限に連続的に生み出される事は了解できよう。それでは、その後、それらはどのように発展して行くのだろうか。やはり主たる問題は延々と続いて行くようだ。

死後の世界には何もない”無”という人達の考え方について
無=0とは、無限大の逆数である。次の世界が、無であると考えることは、数学的定義としてありえない。地球上存続できる時間は有限だからだ。すなわち、こ の我々の場から無を生み出すことはありえない。最大限地球上で生きることを人類として頑張っても無限大に生きられないから、無にはならない。
そして、1/∞の無を考えることは出来るだろうか。彼らはどんな世界を想像しているのだろうか。無限に広がる暗黒の空間のように思うのだろうか。そんな空間に存在するとは、何ともいえない恐怖に駆られないのだろうか。
地球の命が有限であるとみたとき、その空間を出たときに、無限の空間の可能性を見出せるかもしれない。物理場として、拡大している宇宙をも乗り越えてゆくかも知れない。
そんな意識の空間を広げてゆくことに、我々個々人の役割はあると思う。
地球上では長い、しかし、有限の年月、その逆数は0よりも大きい.

次の空間へ飛躍する死後の世界を求めて生きる。では、人間の魂はどこから来たのか。過去が在ったのだろうか。

死後の世界と地球消滅とともに我々の移行する世界は同一か。あるいはそこでの連続的変化の中にあるのだろうか。
何か蓄積された情報、思考の結果が各人にある。親や先祖からだけのものなのか。いや、違う何者かが、我々の中にある。 Reincarnationの結果としての現在の存在が何処から来ているのか、想像するのも面白い。

持続可能とは、太陽エネルギーで地球上の系を閉じることを狭義の意味でさすが、太陽系以外からやってくる、まだ定量化されていない他の宇宙からの寄与も忘 れてはならない。そこには、東洋(十二支)、西洋(Zodiac)の運命論の空間があり、それが死後の世界への発展の示唆を与えてくれるかも知れない。

その意味で瞑想は、身体と切り放された後の精神のみが向かう-質量の無い-空間の場に相当するとも言えよう。

人は何のために生きるのか。祈りに求める人達、一つの意味を持つかも。しかし、それだけでは創造性は生まれない。

死を、現世の(物質的)苦から解放される空間と考えてはならない。
さらに、精神的発展を追求する、次の空間と考えねばならぬ。

持続可能な生き方のもとで、創造の空間(芸術、文化・・・・)から歓喜を求め、精神的発展の空間を求めてゆくことが大切だ。そして、それらは独立ではなく、補間的である。
この肉体から離れて行く次なる世界には、精神的発展において無限の世界が広がっている。自然と接しているとき、初めてその美しさ、偉大さから、そのような発想が生まれる。

誰にもわからない死後の世界を想像し、その良し悪しを、行き着く先で確認するという夢を与えるのが、死後の世界ではなかろうか。そして、そこによりよい空間を求める気持ちになれれば幸せではないか。そうなることは全く簡単ではないが。

死の世界を解く前に、少なくとも精神的な意味でのたましいの存在とその連続性を想い、感じられること。瞑想が必要か。瞑想で得られるか。いや人工的な瞑想ではだめだ。自然の中に浸り、そこからの観察や、感激や、瞑想で獲得すべきだ。

植物も動物も太陽のエネルギーをむさぼっている。そして全てが無(物質的に)になる時を待っている。
生き物全てに、共通したたましいの空間があるのではないか。
消失した種のたましいも、何処かで素晴らしい宇宙空間に存在しているかも知れない。
生き物全てに前世があるのかも知れない。

太陽の存在を、時間軸上有限のものに表して行く→宇宙時間へ、そして空間へ→
この様な発展を思考しながら、たましいの解放を求めて行く。
宇宙を心の中に映し込む。Mapping

むすび

年をとって過去を振り返るとき、行動範囲と知識が積分され激増する。例えば、大きな富士山、霧島を飛行機の中からみたときの、意外な小ささを感じる如きである。
その意味で、地球を自分の視覚内に納められる。そして、何と一個人は小さいか、地球を感じるとともに実感する。その実感そのものが、大きな新しさだ。
時の人間の造った制約等何であろうか。人工衛星で宇宙飛行士が感じたであろう、あの感激は身近にも沢山現れる。

自分を何時も振り返って、大きくなって行くことを感じたい。
どの様に発展的に進んで行くか、自然との対話の中に見出さねばならぬ。
太陽、そのもとにある自然との対話を忘れて人間はありえない。

太陽エネルギーが全てという。太陽が消滅するとは時間軸上の概念でどの様なことなのか。また物理的にどの様なことなのか。われわれは地球が誕生してから 46億年、折り返し点にある。そして、それが崩壊するという時点で人間が生きるとは、どう位置づけられるのか。もし、その時まで生きのびられれば、きっと 新しい哲学が見いだされ、次の空間を見いだしているに違いない。

このプロジェクトでは簡単で当たり前の事をやっている。ほとんどが当たり前の事をやっている。現在の社会では、それらがどこかへ行ってしまっている。それが問題だ。

私のすべき事はプラス思考。
夢を追い求める立場から、明るい喜びに満ちた空間を提案する姿勢を貫かねばならぬ。
マイナス思考は否定し、それを繕って行く流れとは、決してふれ合ったり合流したりしてはならない。

これまでにもまして、各人がしっかりした判断を持つべき時代である。
時の流れに流されてはならない。

場を取り戻そう。草のにおい、土のにおい、きれいな水のにおい、新鮮な空気のにおい、そこでこそ、唯一の思考が出来、思考をする場だ。日本の文化はそれをしてきた。歴史とはこのことだ。我々はその遺伝子を持っているはず。
さらにこれを発展させると、他の地域よりも崇高な思想が展開できるはずだ。桃源郷をNZに日本に。

異なった個人の思考が集積されて、新しい次の科学を見出し、個人が要素として集積されて行くような集団的社会の形成。これがないと地球上から次の空間への 飛躍はない。すなわち、思考の進歩を、個人を測る物差しにしない社会環境が必要-個人が表面に出るべきではない-個人が生きるのではない。人類が宇宙を目 指して生きるのだ。

あまりにも常識を書きすぎていると思う人も多いと思うが、この様な生活に慣れていなかった私にとって、それぞれが新鮮な歓喜にも似た喜びがあったからで、 寛容さをお願いしたい。開き直って言うならば、このプロジェクトは、常識の寄せ集めだからよいのだ。誰にでもできるということだ。

幸運な人生を送らせてもらった。資格試験などで人間が評価されることのない、のびのびと生きることが出来る空間を与えられた。そんな空間を作ることがこのプロジェクトにもしっかりと再認識した上で、組み込まれねばならない。

段々とサイトが充実してきた。特にこの春(2006年)は、丘の上から見ていると、パラダイス(桃源郷)にいるような気がした。多くの果物が、木の花が、実が楽しめ、草刈りされた景観はすばらしいものだ。まさに、王様気分だ。

二つのグループに分かれるときがあろう。一つは、持続可能のグループである。
他は、これまで通りをより徹底。しかし、労働力不足で衰退する。化石エネルギーは、大量生産のためますます使用する。省エネは、環境のためではなく、それを破壊するための前奏曲だ。